一日遅れの…。 二月十四日。 その日、青年は酷く不機嫌だった。 明日、時間ある? 恋人になる以前から、定期連絡のように掛かっていた毎日の電話は、今でも当然あるわけで、その問いも昨日の朝の携帯ごしに発せられたものだ。 それに無いと答えたのは自分。なのに相手があっさりと引き下がってしまったことが面白くなかった。 「そりゃダメだって言ったのは俺だけどさ……」 今、母親は海外旅行中。厳密に言えば、父の仕事がらみなのだが……。 何でも、取引先の社長が愛妻家で、この社の主催するパーティには必ず夫婦揃って出席しなければならないらしい。 仕方ないわね、と言いつつ、滅多に逢えない父のもとに行く母はとても嬉しそうで。だからそのこと自体に不満はないつもりだ。が、せめてこの日は外して欲しかったと心密かに思う。 母が帰ってくるのは十五日の予定だった。それまでこの家に残るのは三人、彼と弟達である。それを考えた時、家を空けるわけにはいかないと思ったのだ。 長男としての自覚というか、少なくとも、弟達ふたりきりで留守番させるほど彼は無責任ではなかった。 理由を告げた時、恋人は穏やかな声で「そう」と言った。 無理に時間を空けさせようとしないのは、恋人が彼の意思を最大限に尊重しようとするからだと知っている。 もし仮に、ごねられたとしよう。それでも自分はいい返事は返さないだろう。 だからダメだといえば、そうかと応えられてしまうのは今までの経験からしてもそうなのだ。 けれど、もうちょっとなんとかならなかったのだろうか。 「もうちょっとさあ……せめて一時間だけ逢いたいとか……」 恋する青年、野々村恭介の男心は案外と複雑そうである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 夜の七時。弟達との食事も済み、食器を運ぶ野々村の唇からは、今日何度目かの溜息が零れている。 手にしたスポンジに、必要以上のキッチンソープを落として強く握ったり離したりを繰り返せば、シュポシュポシュポと大きな泡が出来上がった。小さなシャボン玉が周りに散らばっている。それをフーッと吹き飛ばして。 「電話のひとつぐらいくれたって、いいよな?」 茶碗を手にしてスポンジを押し付けた。そしてリズミカルに洗いながら、恋人に対する小さな不満が高まっていく。 「そうだ。電話! まだ掛かってこねーじゃん。なんだよ。バカせいいちろう」 リビングから笑い声が聞こえてくる。最近買ってもらったゲーム機に夢中になっているのだ。フとそれが気になり、 「もうちょっと静かにしろ。周りに迷惑っ!」 なんて怒鳴ってみるも。 急にしーんと静まってしまってから、 「……あ」 我に返った。 実は八つ当たりなのかもしれないと思う。 何してるんだろ、俺……。 慌ててリビングに戻って行った。しゅんと項垂れてしまっているふたりに、大声だしてごめんな、と声を掛ければ、再び場は盛り上がっていく。 「でもほどほどにしろよ」 野々村の優しい声に、幼さの残るふたつの笑顔が応えて。 手に残る泡を落とさないように、またキッチンへと舞い戻る。 「元はといえば取引先がいけないんだよな! 我侭アメリカンめ!!」 非難の先を父の取引先へと向ければ、少しは心もすっきりとしていくようだった。 全ての食器を洗い終え、一息ついた頃、インターフォンが鳴った。時計を見ると七時半。 誰だよ……。 声には出さずに受話器を外し、モニターで相手を確認しようとするが何も映らない。何かで塞がれているようだ。 「はい」 『ケーキ屋さんです』 野々村の声と重なるようにして発せられたセリフと、その馴染みのある声音に。 笑いそうになってしまった。 どんな顔で言っているのだろうか。 「頼んでませんよ?」 含み笑いで返す。 『困ったな……受け取っていただけませんか?』 ほんとにちょっと困ったように聞こえてしまうのが可笑しい。 「いま行く」 口元に広がる笑みを隠そうともせずに、玄関に急ぐ。 扉を開ければ、にこにこと笑顔を浮かべた日高が立っていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「何で何で?」 興奮して子供のように聞いてしまうのも無理はない。突然届いたプレゼントほど嬉しいものはないのだから。 諦めていた時間が今、ここにある。 「寂しかった?」 密やかな声は、自分にしか届いていない。 大好きな人の優しい瞳に見つめられ、顔が赤くなっていくのがわかった。 いらいらしていたものが全て吹き飛んでしまった。 思わず零れる照れ笑い。日高の口元も綺麗にカーブを描いてる。 「真っ赤」 頬に当たられた日高の手は、外にいた分、ひんやりして気持ち良かった。ポーッとしている野々村に、日高が小さく笑う。 「一緒に食べよう」 掲げられたのは白い箱。 わーい。 はしゃいだ声が己の後ろから。日高をリビングへと通したのは、そんな弟達の声だった。 四人で食べるには充分な大きさのホールケーキ。 しかし、日高が持ってきたのはそれだけではなかった。 「これは邦彦君と啓君に……」 赤い包装紙でラッピングされ、リボンの掛けられたそれは、亜紀からのプレゼントだという。「どうせ行くんでしょ、渡して」と。 彼女の頭の中には逢わない選択肢はなかったようだ。 用意されていたのはふたつ。そしてそれらは弟達の手に。あれ、と思う。 亜紀なら、自分にも用意しそうなのに、と。 もしかして忘れたのかなとか、実は後から本人が来るのかとか、いろんなことが頭に浮かんだ。だから口にしてしまったのだ。 「俺には?」 欲しくはなくても聞いてしまうのが男というものだろう。 「のの君にはないよ……。義理なんていらないだろう?」 にっこりと微笑まれ、 「も、もちろんです」 思わず敬語になったのは瞬時に空気を読んだから。危険察知能力は、忍で鍛えられている。 そんな彼に満足そうな日高。今、この場で平和なのは亜紀から貰ったチョコの確認をしている弟達だけなのかもしれない。 どうせこの日はチョコばかりだろうからと、日高が買ってきたケーキはシンプルないちごショート。店名を聞けばああと頷いてしまうような超有名店だ。 さすが、100円ケーキとは訳が違う、らしい。 「美味しいね、日高さん」 満面の笑みで啓太が言う。弟達は野々村が呼ぶように日高のことを「さん」付けで呼ぶ。ちなみに忍のことは「宮前さん」、響のことだけは「ひびきくん」と君を付ける。 「ねえねえ、コレ食べたらゲームしようよ」 「お前はまたゲームするのかよ」 野々村の呆れ声にも、啓太は子供らしいほんわかとした笑みで「うん」と答える。どうやら兄相手というのにも飽きてきたのか、日高とやりたいらしい。 「いいよ。何するの?」 日高も請われるがまま、相手をしている。そのゲームをしながらも、隣で見ている邦彦からは何故か恋の相談なんかもされてみたり。それに真剣に答えようとすれば小さな弟が黙っていない。今度は一緒に風呂に入ろうとせがんでくる。 さすがに困り始める日高に野々村が苦笑して。 「啓……。日高さんだって困るだろ。邦彦と入ってきな」 大好きに兄に諭されては、嫌とは言えないようだ。わかったと頷いて。 「うーん。じゃあ今度ね」 日高が穏やかな笑みで「今度ね」と相槌をうてば、「行ってくるっ!」と風呂場にまっしぐら。少しは落ち着きの出てきた次男が、その慌しさに呆れながら着いていく。 なんだかんだで三時間近くが経過していた。 「毎日あんな調子でさ。慣れてるからなんとも思わないけど日高さんは疲れるだろう?」 気遣うように野々村が口にすれば、 「そうでもないよ」 日高が首を振った。思い出したようにふふと笑うその表情からは、言葉が嘘でないことが伺える。 「まあ、ちっちゃい嵐ではあるね。啓君は」 ここには何度も来た事があるし、弟達にも懐かれている。 ひとり暮らしの身には、これが「毎日」というのは考えにくいけれど、それほど悪くない気もした。野々村と良く似たふたりは、日高にとってとても可愛い存在となっているようだ。 「ねえ、のの君。少しだけ君の部屋に行きたいんだけど……」 「え? あ? ああ……。ちょっとだけ、だからな」 「うん。ちょっとだけ」 ふたりきりになるというシチュエーションに、野々村の顔が再び、赤く染まる。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 風呂場には声を掛けた。 風呂から上がったらもう寝るように。 そして、日高と大事な話があるから部屋には来るな、と。 もう十時を回っている。子供は寝る時間だ。これからは少しだけ大人の時間。 「すぐ帰るから」 「……うん」 部屋に入り、鍵を閉めると、すぐに抱きしめられた。日高が手にしていたジャケットが床に落ちる。 至近距離を見上げれば、吐息のような囁くような声で。 「きょう」 自分の名前が空気に溶ける。 耳朶を弄られた。ぞくぞくとしたものが背中を駆け上がってきて、野々村は日高の背に回した手に力をこめた。 「今日逢えないと思ってた」 ポツリと零れた言葉に日高がフッと笑う。 「初めから来るつもりだったのに」 「!! マジで?」 素っ頓狂な声はその場の甘い雰囲気を瞬時に壊したようだ。ガバッと身体を離し、日高を見上げる瞳には今日一日纏わりついていた不機嫌さが戻っていた。 がしかし、それに動じる日高ではない。 「うん」 「じゃあ電話で言えよな」 にこにこと答える彼に、拗ねる彼。 「伝わってると思ってた」 「なわけねーし」 「そう? だって今日はバレンタインだろう? だから恋人にはやっぱり逢っておかないと」 と。 悪戯っぽく笑い、下に落ちていたジャケットを拾い上げる。 ポケットに手を入れて、取り出された赤い箱。リボンはシルバー。当然、亜紀からのものとは違う。 呆然と眺める野々村。 「君に。……愛のしるし」 本命だよ? そう付け加えて。 「なになに? 買いに行ったの?」 「そうだよ」 「日高さんが?」 「もちろん」 バレンタイン商戦の真っ只中のチョコレート屋といえば女の戦場。そんな場所に、見た目パーフェクトなこの男が買いに行ったというのか。 わざわざ。 「……根性あるね」 「まあ、中にはじろじろ見てる人もいたけどね」 笑っている。 「でも」 一瞬の、途切れる声に何かと思って身構える。 「……君の喜ぶ顔を浮かべながら、いろいろ見て回るのはね、なかなか楽しかったよ」 蕩けるような笑みが向けられた。 「は、恥かしいこと言うな」 なんだかんだ言いつつ、心は喜んでいるのか、耳まで熱くなってしまう。 「照れなくていいのに」 照れずにいられるにはどうすればいいか。脳の回線を切るしかない。出来れば、の話だが。 「ところで当然、誰からも貰ってないよね?」 「え?」 思わず詰まってしまった。 「これ以外に」 「日高さんは?」 「俺が他の女からのものなんて貰うわけないだろう? 鬱陶しい」 「お、俺も!」 本当は大学でいくつか貰ってしまった。よく話す子はもちろん、顔だけ知ってる子とか、名前も知らない子もいたりする。 半ば押し付けられることが多く、断れないことが大半だったのだが。 そういえば響はどうしたのだろう。 しかし、今はそんな場合ではない。この場を乗り切らなければ。 「そもそも俺が貰えるわけねーし。なあ、ほら、日高さんと違って」 あはは、なんて笑ってみたり。 「本当だね?」 目が怖くて、大袈裟なほどに頷いた。 「ほんとほんと!」 あまりにも必死だったのが伝わったのか、表情が和らいでいく。 「他の人から貰ったらダメだよ。毒でも入ってたら大変だからね」 ありえねー、なんてこと、拗れそうなので言えなかった。 心を落ち着ける為に、大きく息を吐き出して。 それから、掌の上のものを見つめた。 彼が言ったようにいろいろ見て回って、選んで、買ってくれたものなのだろう。可愛らしい箱だった。 「あ、あの。ありがと。俺、何も用意してなくてゴメン」 申し訳なさそうに口にした野々村に日高は、そうでもないよ、と微笑む。 「今日の君はいつも以上にとっても可愛いから……。寂しくて拗ねちゃってるところなんかもう、たまらないね」 臆面もなく甘い言葉を連ねるこの唇が、野々村の唇に重ねられた。 ちゅっ、と軽く。 「かわいい」 本当にそう思っていそうだから、恥かしさ倍増。付き合って大分経つというのに、未だに慣れることはない。 恋人に優しいひと。 今まで恋人だった人にもきっと優しかったのだろう。普通は、そんなことを考えれば気分が沈んでしまいそうなものだけれど、生憎、野々村はそんなマイナス思考ではなかった。 今は自分だけ。わかりすぎるほどにわかるから信じていられるのだ。 「ほんと、恥かしいやつ……」 甘えるように肩に頬を擦り付ければ、宥めるように背中を撫でてくれた。 それからベッドに並んで座った。 濃密な空気になりそうでならないのは、日高がその先に踏み込んでこないから。強い意志の賜物というか、己を制しているようではあった。 髪を撫でる手。 時折、キスを落す唇。 野々村を覗き込む瞳。 全てが優しい。 日高は甘えられることが嬉しいと言う。 「のの君は頑張る人だから」 頑張るってなんだろう。目に見えるとは思えないけれど、日高がそう感じるならそうなのかもと、心地よさに浸りながら思う。 「君が大切にしたいものは、俺も大切にする。君が守りたいものは、俺も守るよ。 いつでも寄りかかっていいんだよ……。傍にいるからね」 柔らかな声が心に深くしみこんでいく。 「忘れないで。君が誰よりも大事だってこと」 「……うん」 守られたいと思ったことはない。ただ、この人になら弱い部分を見られてもいいと思う。 寄り添える相手。 心がとても大きなひと。 彼に巡りあえてよかった、心からそう思っている。 「さて、と。じゃあ、そろそろ帰るかな……」 腰を上げた日高と一緒に野々村も立ち上がった。見つめ合えば、引き寄せられるように唇を重ねてしまう。 「もっと時間が欲しいよ」 小さな声で野々村が言った。 「明日……。母さん、帰ってくるから……だから行ってもいい?」 「いいに決まってる。泊まりにおいで」 一日遅れたけれど、大人味のチョコでも買って行こう。 そして明日は、今日の続きをしよう。このキスの続きから。 |
おわり
2007/02/15
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