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余裕 駅の大時計がちょうど六時を指していた。 バイトの入りから逆算して、六時半には家をでなければならないが、急げばまだシャワーぐらい浴びる時間はあるだろう。 「走るか」 駅からマンションまでの五分を、走った。 〜 〜 〜 〜 〜 〜 〜 鍵をあける間ももどかしく、ドアをあけると速攻で服を脱ぎ風呂へと駆け込む。今日は誘われたテニスをして遊んでいたのだが、ついそれが楽しくて。 気付いたらバイトの時間ギリギリになってしまっていた。こんなことは珍しいんだよ、俺としては。 頭と身体を洗い汗を流す。熱めのお湯ですっきりさっぱり。 はあ……。 なんとか間に合いそう。 洗面所にある時計を見ると、まだ、コーヒーを飲む時間ぐらいは確保できそうだった。 頭を拭きながら扉を開くと、 「あ」 小さな一言を発して、俺の恋人が立っている。 玄関で靴を脱ぎ、一歩入ろうとしたところでの一声だ。思わず頬が緩んでしまう。なんだか、声に驚きとか、そんなニュアンスがあったように感じたから。 「何、ビックリしたって感じだね?」 「翼の帰ってくる音が聞こえたから来たんだけど、まさか裸で出迎えられるとは思わなかった」 にっこりと、普段からは考えられないぐらいの笑顔に、 「君の為ではない。残念でした。これからバイトなんでね」 負けないぐらいの微笑みを返し、少し牽制すると、フッと彼らしい笑いを零した。 命はちょうど受験真っ最中で、国立の二次試験を控えていた。 とはいってもあんまり変わらないんだよね。表面上は。辛い素振りも見せないし、疲れた様子も見せない。 だけど、やっぱりプレッシャーはあるんじゃないかな。両親から期待されて、教師からも、生徒からも。 命なら出来て当たり前……、みんなそう思ってる。 命は何も言わない。愚痴、不満、何も。でも、なんか。そういうの、どうなんだろう。背負えるだけの強さは、確かに持っているのだけど……。 わりと自由に生きてる俺にはよくわからない。俺だったらきっと押しつぶされて逃げ出しているかもしれない。 だからというわけではないが、命に頑張れとは言わないことにしている。少なからず、今している努力が報われればいい、それだけ。 「命、ちょっとコーヒー入れてくれないかな? またすぐに出かけるから」 ゴシゴシゴシ。 タオルで髪の水気をふき取ると、そのまま肩にかけ着替える為に部屋へ行った。 ワンルームだから、リビング兼用の部屋。こたつとベッドがあるからかなり狭いが、そのくらいの方が落ち着くんだよね、俺は。 「さて、と」 身体が温まっているうちに早く服を着た方がいいな。すぐに出るつもりだったからヒーターも入れてない。 もたもたしてる間に、どんどん体温を奪われていく気がした。 こんなことなら、先に着替えを用意してからシャワーにすればよかったか……。 クローゼットの中にある小さな箪笥から長袖と半袖のTシャツを出し、先に長袖を首に通したところで、後ろに気配。 振り向くと、口の端をあげた命がいる。 そして俺はといえば、首だけにTシャツを引っ掛け下はパンツというなんとも間抜けな格好。 「ミーコートー、コーヒーは?」 奴は無言で俺の裸の背中に張り付いた。折角、通したシャツを、「ハイハイハイ」 と言いながらまた脱がされて。そのハイハイって何? 「つばさ」 スイッチが入ったみたいだった。エロスイッチ、パワーオン。 甘さを含んだ声が好き、なんだけど。 「俺、出かけるって言ったよね?」 構わず、身体を正面に向かされて唇を塞がれた。そのまま思いっきりのキス攻撃を受けて。 手がそこら中を這い回る。 このままでは……。 頃合を見計らい、そっと命の胸を押した。 「そのさ、秒速で発情するのやめない?」 「無理無理。裸でいるということは、そういうことだろう? 原始時代からの本能」 なんとまあ、ありきたりなお答え……。 首筋に感じる吐息で、背中にゾクゾクとしたものが走る。 んっ、と思わず漏れた声に、命が小さく笑ったのがわかった。 うーん、マズイ。 流されそうだ……。 「ファンが嘆くぞ?」 こんなすぐに発情する奴だなんて知ったら、ね。 かなりの人数のファンがいると訊く。それは女だけとは限らず、男までもいて一大勢力を誇っている、と。 まあ、この顔とこの頭脳だから、それも思いっきり頷けてしまう。 命はというと、全然そんなことお構いなしで、むしろ迷惑がっていている様子だけど。だからかな、恋人います宣言もしてしまったらしい。 それがまた男らしいとかでファン増加となったようだが、本人はそこのところ全く気付いていないのだそうだ。――と、ある人物が教えてくれた。 「ああ、あの煩い連中を追っ払うには、こうすればいいのか……。今度、そいつらに見せるか? やってるとこ」 くくっと笑いながら、馬鹿げたことを言う……。 「やっぱり止め。翼のイくところなんかみせらんねえ」 確かにそれは俺も勘弁してもらいたい。 それもそうだけど、君の感じてる顔も見せたくないね。 「ほんとに時間がないんだよ、命」 なんとか押しやり、視線を合わせることに成功した。 「ヤダ、やる」 眼が真剣だ。 お前……。 聞き分けのないおこちゃまか? いや、そうだった。何度もそれで襲われていることを忘れるところだった。 呆れているほんの僅かな時間を了承ととったのか、その場に押し倒された。 うわっという自分の声が虚しく響く。どうせならベッドに倒してくれ。 身体が変な具合に捩れて苦しい。ああ、違う。今はそんな場合じゃないんだっけ。 視界の隅に入った時計は……。 六時二十五分! 言い聞かせる時間もなさそうだ。一瞬で片をつけなければ。 「命! よく、訊け」 慌しく、身体中にキスを繰り返す命が、動きを止めて俺を見る。 ちょっちょっと、指で同じ目線に来るように示して。 ?、と問いかける瞳に笑いかけた。 頬を両手で挟み、命の顔を引き寄せる。 「それ以上やったら、犯すよ?」 耳元に囁きかける。 ビクッと肩を揺らし驚いたような眼差しを向けた後、非難めいたものに変わり、ゆっくりと身体を起こす。わかった、と。 ふてくされたように背中を向けて、胡坐をかいて座っている。 随分と効果があったもんだ。少し反則気味かもしれないけど。 命が俺の前に現れる前、男にやらせるかわりにやったことがあった。交換条件みたいなものかな、興味本位の。 抱く側抱かれる側、どっちも経験があるから、それを知ってる命は俺の言葉を本気にしたのかもしれない。 余程嫌なんだろうな、抱かれる側は。気付かれないように苦笑した。 本当は、そんな気はないんだよ。命に抱かれるのは嫌じゃないんだ。ただ、命は綺麗だから。色っぽい顔をするというのか。 そんな時は、抱いてもいいかな? と思うんだけど、絶対に断られそうだから言わないようにしてる。全身で愛されるのが気持ちいいっていうのもあるし、充分、満たされてるし。 「いい子だね、命は」 背中から抱きついて、わしゃわしゃと髪を乱してぎゅうと力を込める。 俺の大事な愛しい恋人。 「早く行けばいいだろう?」 ムッとしたように俺の腕を振り切り、自分の部屋へと戻っていった。 ふふっ……。 どうしようもなく込み上げてくる笑い。 みんな騙されてるよね。冷たいとか、さめてるだとか、薄情だとか、傲慢だとか。俺が高校にいた時、鷹取命のそんな噂が立っていた。 本当の命は寂しがりやで、こんなに可愛いのに。 「おっと、時間だ」 ジャスト、三十分。 服を着て、コートをはおり、部屋を出る。 鍵を掛けて隣をノックした。 出ないかな、と思ったけど、ガチャっと音がして、十センチほどの隙間が出来て。何?、と堅い声がした。 「行って来ます、って言うの忘れたから」 扉を開けて半身だけドアの隙間から入れて言う。 「ああ。気をつけて……。行ってらっしゃい」 律儀にボソボソと喋る命を引き寄せ、キスをした。 「行ってくる。帰りは夜中になると思うけど……。こっちのベッドで寝てていいからね。それと……。あれは冗談だよ? 命に抱かれるのは、好きだから」 小さく頷く命にもう一度キスをして。やっと微笑を浮かべた恋人に、俺も微笑みで返した。 しばらくは、抱かれる側で満足してあげるよ……。ちょっと惜しい気もするけどね。 可愛い命。 誰にも教えてあげないよ、本当の君のことは。 なるべく早く帰ってこよう。 そして今夜は、彼を抱きしめて、眠ろう。 SS No20(2004/02/20) |
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