酷い男 18
微かな気配に章正は目を覚ました。 窓からの僅かな光を頼りに視界に映すシルエット、それは隣に寝ていたはずの人が半身を起こしているというものだった。 己のパジャマを着た見るからに華奢な背中。 座ったままの春久は身動ぎもしない。 春久の意識が飛ぶまで彼を貪り、夕飯も食べずに寝たから空腹に目覚めたのだろうか。 フとそんなことを考えたが、それならばこんなに空気が重いはずがない。 「どうした?」 声を掛ければ、ピクリと肩を震わせ頭を動かした春久が、 「ごめん……、起こしちゃったね」 そう言った。弱弱しく申し訳なさそうな響きを伴う声で。 暗がりと俯いているせいで表情までは伺うことが出来ない。それがなんだかとても……、嫌な感じがした。 焦りにも似たもやもやした気持ちを抱え、ベッド横に置いたリモコンでスモールライトをつけた。 ほんのりとした色に満ちる部屋。 自分も身体を起こし、ついでに時間を確認した。外は暗い。まだ二時だ。 「春久……?」 なるべく口調には気をつけて呼びかけてみた。 首を捻り、視線を落とす春久の横顔はやはり声を裏切らない顔だと思う。 夕方に目覚めた時は、ただただ嬉しそうな顔を見せてくれた。今とは正反対の顔だった。 気だるさや疲れとはまったく別の、悲しみのようなもの。見ているものを切なくさせる、そんな表情だ。 おそらく空白の時間に関することで埋め尽くされているのだろう。 春久の頭の中を覗けるわけではないから完璧に理解するのは不可能であっても、 彼の纏う雰囲気から確信めいたものを感じた章正である。 途端、胸に広がる苦い想い。それでも自分からは口にしたくないから、気づかない振りを装うしかないのだけれど。 「身体、辛いか?」 章正の言葉に小さく首を振る。 そしてまた背を向けた。 「どうしたんだよ」 なんとなく拒絶されたように感じ、思わず拗ねたような声が出た。 いつもならばそれだけで注意を惹きつけられるのに、今の春久は自分のことで精一杯らしい。 こちらを向く気配すらない。抱しめてみても、冷え切った肩がぴくりと動いただけ。 腕の力を強くした。 章正は春久が寒くないように後ろから包み込むように温もりを与えて……。 そうして過ぎる時間はどれほどだっただろうか。 しばらくすると、ちょうど春久の腹の部分で交差していた腕の上に、重なる彼の手があった。 そして温かいと一言落ちる声。 認識されたことがよほど嬉しいのか、章正の「当たり前だ」と返した口調は柔らかい。 「何ぼーぅっとして。吃驚するだろう? どっかいっちまうのかと思った……。夢遊病者まっさおだな」 大人しく胸に収まっていた彼の髪に口づけをしながらそんな風に茶化してみたりもした。 けれど春久はそれには応えずに、笑いもしない。 「バイト……さぼっちゃった……」 ただ静かに言葉が零れ始める。 「ハル」 「今日、章正に呼ばれて……バイトまで時間があるからって掃除してて。浅岡さんが来て」 聞かせようという意味合いはないのだろう。 ひとつひとつ噛み締めるような話し方は、まるで自分の頭の中に浮かんだ事柄を整理してるかのように思えた。 「DVD貸してたって言ってた。コーヒーが飲みたいって……、ひとり分だけいれたら、一緒に飲もうって……」 一拍おいて、それから小さく溜息を吐いた。 「あの人今まですごく優しかったんだ……。すごく気を使ってくれてたのわかってた。一緒に飲みに行っても楽しくて……」 戸惑いの混じる声音に心が軋む。 寂しげで儚くて。 掴んでいなければこのままどこかに行ってしまいそうで、身体ごと自分へと向きなおさせた。 瞳をあわせる。 章正が声を発しようとした時、彼を見据えたまま、春久が言った。 「浅岡さんの、口でしたよ……。キスもした……。僕は、抱かれたのかな……。ここ、章正の部屋なのに……こんなことして、ごめ、なさい」 ごめんなさい、と繰り返す春久の表情が泣きそうに歪む。 やはり現実は春久を放っておいてはくれなかったらしい。 浅岡の楽しげな声とあの濡れた音が耳に甦り、しかし表情には出さずにすぐに追い出した。 ここで自分が動揺すれば、春久をもっと傷つけるだろう。それだけはしたくないのだから。 「謝るな……。悪いのはお前じゃない。浅岡から全部聞いた。ハルが寝てる間に電話があったから……。 俺が弱いせいだ。お前を巻き込んだのは俺なんだよ。許して欲しいのは俺なんだよ」 だからハルが気に病む必要なんてない、そう続けた。 それでも首を横に振る春久。 ぎゅっと手を握り締める。 「忘れてくれればいいと思ってた。全部。春久が心を痛めていること、全部。……だけどそんな都合よくはいかないか。俺の罪も忘れてほしいってことだもんな」 ここにある温もりを手放したくはない、と思う。 だからこそ、正直に。 「認めたくなかったんだ……。お前を好きなこと」 ポツリと零した章正に、今度は力尽きたように俯いてしまう春久。 「ごめんな……」 「僕……」 何を言ったらいいのか、どうすればいいのかわからないというように、言葉が続かない。 「僕……」 再び、そう言ったまま俯く春久の顎を指で軽く持ち、上に向かせた。 「好きなんだ」 春久の瞳が頼りなく揺れる。受け止めていいのかどうか戸惑っているかのように。 そして章正の瞳も同じように揺れていた。春久の拒絶を恐れるかのように。 「僕だって好き。アキがもういらないって言った時、すごく悲しかった。だけどそれでもずっと好きだった。 忘れようとしても忘れられなかった……。だけど僕は……よりによってアキの部屋で他の人とやってたんだよ」 認めたくなかったという彼の言葉はそれほどショックではなかった。 今までの態度を見ればわかることだから。 そんなことは、好きと言ってくれただけで春久の中では帳消しになってしまう。 ただそれを素直に表せないのは、心にわだかまるものがあるからだ。 言うに及ばず、浅岡とのセクシャルな行為である。 章正のことは、好き、好き、好き……。嫌いなどという感情の入る余地などないくらい、そんな気持ちで埋め尽くされている。 過去は過去、そんなことをいちいち気にしていたら前には進めない。そんなことはわかっている。 けれど、そう思おうとしても章正が絡んでしまえばそんな単純な事柄ではなくなってしまうのだ。 章正が起きるどのくらい前だっただろうか。 暗闇で目を覚まし、隣に眠る人を確認してその寝顔を眺めていた。 激しい夜に赤面して、どうしてこんなことになったのだろうと記憶を巡らしていて、 すっかり正常に機能していた思考は嫌なことまで思い出させてくれた。 爽やかな笑顔。 コーヒー。 薬の空き袋。 暗く哂った、表情。 彼自身を口にし、しかも相手の手に感じてしまった自分。 今思えば身震いするほど嫌悪することだけれど、事実であることに変わりはない。 それでも涙は見せなかった。ここで泣いたら、まるで被害者ではないか。被害者面をするつもりはないのだ。 合意の上、とはいえないが、章正に抱かれない身体だから他人に与えてもいいと思ったのは事実。 だからあの時は、過去にできないほどの傷にはならない、春久は思ったのだ。大したことではないのだと。 けれど、それは章正には抱かれないことが絶対条件だった。 それが崩れた今、自分はどうすればいいのだろう? 一緒にいたい。 愛してるという言葉をもっと聞きたい。 春久の望みはたったそれだけなのに、それすら望んではいけないような気がする。 己の良識が、己を縛る。 「やっぱり駄目だよ」 小さく呟き、 「そんなの許されない……」 目を伏せた。 章正には春久の拘るところがわからなかった。何かが違う。さらに言えば、ずれている、それを感じた青年である。 許されないというのは、誰が誰に対して? 春久が春久自身に対してなのか? 口ぶりからすると、どうやらそうらしい。だとすればそれほど複雑な問題だろうか。章正本人を許せないと突き放すならともかく。 結果、呆れ口調になってしまう。 「やってたじゃなくて、やられたんだろうが。一方的に強引に」 「でも……」 「でもじゃねえ」 「でも僕だって感じてたんだ!」 相手が浅岡だから…、というわけではない春久だったが、彼の苛ついた感じと、そのいかにも君は悪くないよ、という言葉についムキになり言い返してしまった。 「感じたのか!」 焦る章正に、真っ赤になった春久が口ごもり、 「っ、とにかく、僕は人として最低だ」 言い切ったが。 「あー、それ言われると辛い。人として最低なのは俺の方だから」 天を仰ぐ章正に青年は視線を彷徨わせた。 馬鹿馬鹿しい言い合いである。 浅岡との一件は本人からの電話で大体のことはわかっている章正であり、潔癖症の春久が気づいた時、言い合いになるだろうことは予想していた。 どんなに心を痛め、傷つき、悩むかを。 もしかしたらそれがきっかけで自分から離れようとするかもしれない……。 一番恐れることだったが、今までのやりとりの限り、春久は自分を嫌いではないという、むしろ大好きということに自信を持った。 これほどの好カードはないだろう。 「今までお前にすごく酷いことばっかりしてた。浮気もしたし、俺のせいで浅岡にやられそうになったり、散々だよな、ホント。 嫌われても仕方ないと思ってる。だけどごめんな……、好きなんだよ。離したくない。何度でも言う。愛してる。傍にいてほしい。離したくない」 躊躇う間など与えない。 こんなに必死な自分はありえないキャラだ、章正は思う。こんな熱血ではなかったはずだ。 けれど春久のこととなるとそうなってしまう自分がいた。 「もう一度、俺と付き合ってくれないか? ちゃんと恋人として……って抱いといて言うセリフじゃないのはわかってるんだけど」 伝わっただろうか……。 反応の薄い顔を覗きこむ。 すると、しばらく黙っていた春久がポツリと零した。 「愛してくれるの?」 それは小さく頼りない声で。 信じきれない色を含んでいたけれど、それも仕方ないと思う。 なんと言っても、今までが酷すぎた。 これから示していけばいい。信じられるように。信じてもらえるように。 「うん」 「許してくれるの?」 「おまっ! お前の罪はどこにあるんだ? 俺には全然わからないんだけど」 許してと請われるたびに分の悪さを痛感する章正である。新手の責め方かとも思ったが当然、口にはしない。 春久がそんな嫌味な性格ではないことは知っているし、これ以上拗れるのは勘弁してほしい。 苦笑する章正にチラとも視線を寄越さず、それからまた黙り込む。 今、自分なりに葛藤し、気持ちに折り合いをつけようとしているのだろう。 章正や浅岡を許そうとか、他人に対してではない。ただ自分自身を許せるかどうか。 それが章正には手にとるようにわかる。 そして。 いい方向へと転がる。そんな予感もした。 否、予感ではない……、心密かに自嘲する。祈りのごとく春久の名を繰り返し呼んでいる己の心を顧みれば、それは期待なのだろうから。 「愛しててもいいんだ……」 自分に言い聞かせるような声音に、期待が確信に変わる。 章正は嬉しそうに唇に笑みを乗せた。 それでも、まだ言うべきことが残っている。 「今更、こんなこと信じてもらえないかもしれない。今までのこと忘れたわけじゃない。忘れてくれなんていわない。 でも、信じてもらえるように努力する。もう離したくないんだ……。大切にする。泣かせない。だから、最初からはじめて欲しい……」 もう一度やり直すための、誓い。 本人にしてみたら、真剣なのだろうが……。 聞けば聞くほど嘘臭く聞こえてしまうのは、章正のこれまでの所業を知っているからかもしれないし、 こんな話をお互いにしたことがなかったせいかもしれない。 ただ、思いつく限りの言葉を並べているのだとしても、この真摯な表情を見れば決してこの場限りのものではないということがわかる。偽りのない本心なのだ、と。 言葉足らずで擦れ違いを起こすのは、もうやめにしよう。 春久は顔をあげ、大好きな人を視界に留め、言った。 「僕は……。章正はきっと変わらないと思う……」 静かに見つめ返す章正。 「きっと、また、僕を置いて女の人のとこに行っちゃうと思う」 「ハル」 「だけど……、僕もきっと変われないから。きっとずっとアキのこと好きで、忘れられなくて、待ってしまうと思う」 自分達は同じことを繰り返すだろう。 人間なんてそう変われないから……。 悟りきった考えだと笑われるかもしれない。けれどもそれが正直な気持ち。 そうわかっていながら、春久は思う。 変われないのならば、このままでいいではないか。 心に忠実になっていいではないか。傷つくことを恐れるよりも、この人といることを選びたい、と。 離れれば、後悔するに決まっているから。 絡まっていた糸が解けたようなすっきり感に、春久がクスリと笑う。それからやっといつもの彼の表情へと戻った。 「だから、これから先も僕は章正のものだよ……」 でもね、と続け。 「僕は家政婦じゃない」 口を尖らせた。 「わかってます」 神妙な面持ちがおかしくて、春久の唇はより深い笑みを刻む。 「デートもしてくれる?」 「どこへでも」 「浮気はもうしないで」 「絶対にしません……。いろいろ迷惑かけてごめんなさい……」 軽く頭を下げる章正の頬に春久が口づけた。 己の弱さを、甘さを、エゴを詫びる章正だけれど、彼ひとりが負うべき物でない。 捨てられたくなくて全てを許し、認め、甘やかした春久の罪でもある。 ただの口約束に過ぎなくても。 同じことが繰り返されても。 それでもこの人が好きで、離れられない。 求め求められ、きっとそういう星の下に生まれてしまったのだ。 足りない部分は補い合えばいい。足して二で割った性格がちょうどいいというなら、それもいいではないか。 「僕もごめんなさい」 「またお前が謝る……」 章正が苦笑し、 「アキ」 まじまじと見つめていた春久がふわりと微笑んだ。 「アキ」 そして音にするその二文字に、 「うん」 頷きながら言葉を返してくれる。 「アキ……、」 頬に両手をあてた。ここにいるのが章正だと確認するかのように。 思えば、章正に出逢ったのは偶然だった。 春の日差しが眩しかったあの日。 道に迷わなければ、人に尋ねようと思わなかったならば、章正が戻ってこなければ、今のふたりはなかっただろう。 けれど楽しい時間が苦しみに満ちた時間に変わるのはあっという間で。 悲しみに胸が張り裂けそうになったこともあった。背を丸め涙を流したこともあった。このまま消えてしまいたいと思ったこともあった。 苦しくて苦しくて――。 それも遠いことのように思える。 ここに。 こんな近くに。 「アキ……」 優しい表情の章正がいてくれる。 愛されていないと、思っていた。 もう自分の想いを表に出してはいけないと諦め、ともすれば二度とこんな風に名前を呼ぶこともないのではと思っていた。 もっと優しくて、もっと穏やかで、もっと思いやりに満ちた人は、世の中に数え切れないくらいにいるだろうに、 何故章正を待ってしまうのだろうかと、そう何度も自分に問いかけた。 それが今わかった気がする。 答えなどない、ということ。 愛する気持ちに理屈など関係なかった。 世界中の人に馬鹿者よばわりされても、たったひとりだけ共感してくれる人がいることを知っている。それは自分だ。 春久自身が自分を信じてやればいい。 愛情を与えてくれるというならば、両手いっぱいに広げて余すことなく受け入れよう。 「アキマサ……」 己の心に向き合ってみれば、なんだか嬉しくて。 春久は名を覚えたてのように口ずさむ。 「春久?」 己の名を呼ばれ、口元を綻ばせたまま相手の言葉を待つ。 少し困ったような音だったけれど、怒っているわけではないとわかったから。 「なに?」 見上げて催促すれば、ますます困惑度を高める章正。 はあと溜息がひとつ頭上から落ちてくる。 そして、 「笑いながら泣くってどうよ? どっちかにしような、うん?」 小さく笑い、目元を拭われた。 「……ん。でも泣いてないよ」 「これで言い張るな。バーカ」 それでも微笑んだまま泣くという春久の状況は変わらなかったが。 「何度でも応えるから。気が済むまで呼べばいい……。ここにいるのは俺だってこと確かめてくれよ……春久」 泣いていると指摘してしまったのが悪かったのか、何か胸を突くものがあったのか、ポロポロと涙が零れ落ちる。 鼻をすすり上げる仕草も愛しく感じて。 胸いっぱいに温かなものが広がる。 かつては己の保身の為なら、人を傷つけることに何の躊躇もしなかった。 上辺だけの優しさで誤魔化し、薄っぺらな言葉を使っていたことも否定しない。 けれど、これから先はもう少しマシに生きられるだろう。 人はひとりでは生きられない。 だからこそ優しさや気遣いが必要なのだと、ようやく、そんな些細な、しかしとても大事なことに気づいたのだから。 それに気づかせてくれたのが、春久の笑顔であり、涙だった。 「いーこいーこ」 なんて、頭を撫でて。赤ん坊にするように背中をポンポンと叩いて宥める章正は心底楽しそうだ。 やっぱ、ハルって可愛いよな……。 こんな感情はこそばゆいが嫌じゃない。それどころか心地いいのだ。 春久の甘ったれる姿を見るのは嬉しいし、もっと喜ばせたいと思う。 まだ外は暗闇。 夜があけるのは、もうしばらく先のことだろう。 もう一眠りして、ふたりで朝を迎えよう。 一緒に朝食を取って。 それから……。 「明日、映画にでも行こうか……」 「え?」 涙をひっこませた春久が目を丸くして。 「デートしよう」 見る見るうちに耳を赤くする恋人の、照れを隠せない可愛らしい表情に目を細める。 抱きしめて、柔らかな髪に鼻先をうずめた。 甘い香りが誘うのは夢? いや、確かな現実。 「愛してる……、ハル」 |
end.
2005/06/11
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