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蒼い瞳のサンタ〜前編〜

『本日局地的に大雨になるところがあるでしょう』
 午前中の晴れやかな青空は、午後になるにしたがって灰色に変わり、今ではすっかり空一面真っ黒な雲に覆われていた。
 すでにいつ降ってきても可笑しくない状況の中、バイクにまたがり遅々として進まない道路で焦れているのは、高野洋志・高校二年である。
 普段は滅多に渋滞になどならない市道。それがもう十分ほどそのままの状態で待たされているのだ。
「まったく、先頭は何やってんだ?」
 対向車が途切れたところで少しずつ前に進み、やっとのことで先頭らしき車に追いついた。そこに見えたのは車から降りて少年と口論している若い男性の姿。どうやらここが渋滞の原因らしい。少年は腕に何か抱えているようだった。
「あれ? あれは確か」
 その少年には見覚えがある。
「日吉だ」
 日吉真人(まこと)。普段目立つことのないクラスメイト。物静かでひとりでいる事が多い。気がつくと自分の机で本を読んでいる……他の人とは一線を画しているといった印象だ。
 その日吉が顔を赤くして相手を怒鳴っていた。
「日吉! どうしたんだ?」
 その声に怪訝そうに振り返った日吉は、誰? という表情で見た。
「あ、俺、高野。メット被っててわかんなかった?」
 高野がそう言いながらフルフェイスのメットをとると、今度は驚きの表情に変化していく。
「高野クン? 今この人に猫を病院に連れて行ってくれるように話していたところなんだよ」
 何か抱えていると思っていたのは、泥にまみれた子猫。腕の中で目をつぶって震えていた。
「この人がひいたんだ」相手を見据えながら、怒りをあらわにしている。
「ただぶつかっただけだろー。んなのなんともねぇよっ」
 男は不愉快そうに声を荒げ、まったく取り合おうとはしない。
 今にも降りそうだった空はポツポツ振り出し、やがて一気に大粒の雨が落ちてきた。
「うわっ、ぬれちまう。じゃあな」男はそういうと逃げるように車に乗り一気にアクセルを踏むと走り去ってしまった。
「ちょっと待てよ! なんともないってびっこひいてただろ? 連れてけよ、病院」
 男の車に叩き付けるように叫んだ言葉が雨の音に消されて行く。 一気に流れ出す車の群れ。その車内から「渋滞の元」に向けられる、抗議のクラクションとあからさまな好奇の目。日吉は自分へと注がれる視線に俯き、仔猫を雨から守るように抱きしめていた。
「なんだよ、見てんじゃねー」高野が日吉の盾になるように立ち塞がる。
 その様子に日吉は居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
 日吉は、注目されたり、人と付き合うのは苦手だ。だから教室でも、なるべく目立たないように過ごしていた。それなのに、高野は自分を庇う様なしぐさを見せる。普通なら、こんな面倒な状況は素通りしてしまうだろう。 自分の名前を覚えてくれていたこと事体も驚きだった。 クラスメイトとはいっても、ほとんど口を聞いたこともなかったしその存在すら認識していないのではと思っていたのに。
「へんなところであったね。家、この辺なの?」
 大粒の雨を避けるように目の上に手をかかげ、問い掛けるがその答えは返されず、代わりに手を引っ張られバイクに跨るように指示された。
「兎に角。猫、病院に連れて行くんだろ? 乗せて行くから。確か家の近所にあったんだよ、獣医」
 しっかりつかまってるんだぞ!、言われ、子猫を上着の中に落ちないように入れ、つぶさないように注意しながら手を高野の腰に回した。
 びしょ濡れになりながら、動物病院につき早速診察をうける。
 幸い、骨に異常はなく、打撲のみだった。
診察した獣医師の話から、 以前にもこの猫と同じようなブルーの瞳の猫が、ダンボールに入れられて近くに捨てられて居たことがあり、この猫はその中の一匹かもしれないということ、 また、その時期や、骨格から年齢は三ヶ月ぐらいだろうということがわかった。
 ここの動物病院ではボランティアにも積極的なところで、怪我の猫を助けたという事を知るといたく感動し、診察代は無料に、 そして里親募集のチラシを作ってくれば貼らせてくれるとのことだった。
「骨は大丈夫だって。よかったね。おまえ捨てられちゃったの?」子猫は日吉の言葉に「みゃあ」と小さな声を上げた。
 診察が終わり、仔猫をダンボールにいれ抱えている日吉に高野が尋ねた。
「これからどうする? 取りあえず、うち近いから来いよ。びしょぬれのままだと風邪ひくぞ」
「いいの?」
「イヤだったら言わねーし。な?」にっこり笑うと動物病院で借りた傘を差しながら高野の家に向かった。

 着いた所はそこから五分ほどの駅前に建つ七階建ての新築マンション。そこの七階角部屋部分が住居で、一人で住んでるという。
 一人住まいといっても家族と仲が悪いからというわけではない。実際、家族は近所にいるし行き来も頻繁にしている。
 理由は一つ。この部屋が自分の持ち物だからだ。
 去年の宝くじで一等があたった高野は、高校生ながらマンションの二フロアーを買い、他の部屋は人に貸しているのだった。
 交通の便がよく新築三LDKの部屋は需要が高く人気物件となっていた。だから全ての部屋は埋まっており家賃収入も相当なものであった。
 その話を目を丸くして聞いていた日吉は、感心したように言った。
「高野クンって実業家なんだね?」
「所詮、泡銭ってヤツだけどな。まあ家賃が入ってくるから税金とかも大変なわけよ。税理士も頼まなきゃいけないし。……ま、俺の話はいいとして、猫どうすんだ?」
 答えながらリビングのヒーターをつけに行き、洗面所からバスタオルを手に戻ってきた。
 それを手渡しながら、抱えたままのダンボールに入って丸くなっている仔猫に視線を落す。その言葉に日吉は俯いたまま何かを考えていた。 実は日吉の家は公団住宅で動物は飼ってはいけない規則なのだ。
(どうしよう……)
「ボクのところ、公団だから飼えないんだ。……高野クン、少しの間だけ預かってくれないかな。世話はボクが全部するから。責任もって飼い主さん探すから」
 お願いします、と深々と頭を下げる日吉を前に、高野の表情が困惑の色を含んでいく。
「俺、猫って苦手なんだよ。噛んだり引っかいたりするんだろ?」
「そんなことしないよ! ボク、猫飼ってたから大丈夫、保障するよ」
 その確信じみた根拠がどこからくるものなのか高野にはわからなかったが、必死の表情に首を縦にふらないわけにはいかなかった。
 二人の討論に目を開けた仔猫も高野を見上げてみゃあみゃあ鳴いている。
(ダブルでお願いされちゃあなぁ〜。仕方ないかな)
「わーった。飼い主が見つかるまでだぞ」
「うん。ありがとう。じゃあ、早速トイレを作って、猫のご飯を買いに行こう!」
 トイレ容器は冷凍モノがはいっていた発泡スチロールで代用し、フードを入れる皿は縁がかけ捨てる寸前だったものを使うことにした。用意が整うと、さあ、行こう! と手をひっぱる日吉は学校の姿とは全く別人のようだった。

 いつの間にか雨があがり、夕焼けが世界を赤く染めている。 近所のスーパーでトイレ砂とフードを買うと部屋の一角にそれをセットした。
(今日は足が痛くてトイレできないかな。したそうだったら、トイレに下ろしてやらないと)
 だが、それを高野に頼むのは気が引ける。世話は自分でしなくてはいけない。日吉は思い切って考えていた事を口にした。
「ねぇ、高野クン。今日ボク泊まってもいいかな? 仔猫の世話したいし」不安そうに瞳が揺れている。
「別にいいけど。明日学校だぜ。制服どうするんだよ」
「今から帰って取ってくるよ。隣の駅だから」
「じゃあ、乗せてってやるよ。バイクの方が早いだろ?」
 仔猫をそのまま残し、二人は早速日吉がすんでいる公団に向かう。
 そこは高野の家から裏道を通って十分の距離だった。築三十年の団地の三LDKに両親と住んでいるという。 バイクを降りるとすぐに家の中に入っていった日吉は、大きめの鞄を持って急いで戻ってきた。
 階段も走ったらしく、息があがっている。
「そんなに慌てなくてもいいのに」高野が苦笑すると、「待たせるの悪いから」と穏やかに微笑んだ。

 マンションに戻ると、その気配で仔猫がみゃあみゃあ自己主張している。
「今、ご飯あげるからね」猫を抱き上げ、話しかける日吉から何故か視線をはずせない。
(なんか似合うよな。コイツと仔猫って。それに、雰囲気も柔らかいし。まさかほんとに別人だったりして)
 学校では絶対に見せない一面。それを見れたのがなぜだか無性に嬉しかった。
「なんか腹へったな」時計は午後七時を指している。
「そうだね。さっきに何か買ってくればよかったね」
 結局、買い置きのスパゲッティを茹でミートソース缶をかけるといった簡単な夕食をとった。

 交代でシャワーを浴び、日吉は仔猫を拭くためにお湯に濡らしたタオルを手にして戻ってきた。
 薄汚れた灰色の仔猫は日吉の手の中で大人しくしている。
 時折、日吉を見上げてみゃあと何かを話しかけ、そのたびに日吉が「なぁに?」と答えている。 すっかり泥汚れの落ちた仔猫は日吉の膝の上で丸くなり安心したように寝始めた。
「二〜三日もすれば足もよくなるね。そしたらお風呂にいれてあげなくちゃ。きっと白いんだよ、この仔猫。 目だってブルーで綺麗だよね?」
 ぼけーっと仔猫と日吉の様子を見ていた高野は、急な問いかけにビクッと飛び上がり、読みかけの雑誌が手からバサリと落ちた。
「あ、ゴメン。聞いてなかった。なんだって?」思わず苦笑がもれる。
「いや、いいんだ。大したことじゃないし。びっくりさせてごめんね。」頭をぶんぶん振り、明るく振舞う。
(無理いって泊めてもらってるんだし。迷惑かからないようにしなくちゃ)
「もう寝ようか。ボク、ここでいいから」そう指差したのはリビングの今座っているソファ。
「一応、もう一部屋あるから、そっちで寝ろよ。布団は押入れに入ってるから適当に敷いてな。 俺の部屋こっちだから何かあったら呼んで」じゃあおやすみと手をひらひらさせてリビング横の自分の部屋に戻っていった。
「開いてる部屋って和室だよね。猫がいたずらするとまずいし。いーや、寝ちゃえ」
 和室から毛布と布団を持ってくると、猫の入ったダンボールの横に布団を並べて寝た。



 朝、高野が部屋から出てくると、布団の塊が目に入り、
「部屋で寝ろっていったのに」
 良く見ると、布団の中に猫が一緒に入っている。日吉の腕を枕に、小さな体を日吉の身体にくっ付ける様に寝ている。温もりが安心するのだろう。 熟睡してる一人と一匹。自然と微笑がこぼれた。
(それにしても気持ちよさそうに寝てるなあ)
 普段、じっくり見たことの無い日吉の顔は、自分を守る壁がない分、すこし幼く見えた。
 そばかすひとつない象げ色の肌。意外と長いまつげがかすかに揺れている。 鼻は小さめで、いつもはキリッと結ばれている唇は、わずかに開かれ寝息がもれていた。
(ふーん)
 しばらく見つめていた高野は時計に視線を向ける。今、起さないと確実に遅刻するだろう。
 キッチンに向かい、コーヒーを入れながら大声を出す。
「日吉ー。起きろ、遅刻するぞー」
 コーヒーを手に持ってリビングに戻ると、布団の上でポワーンとしている日吉と目があった。
「あ!! おはよう高野クン。昨日はごめんね。迷惑ばっかりかけて」
 現実に気がついた日吉はスイッチが入ったかのようにしゃきっとしていた。仔猫は人間の声など関係ないかのように、まだ布団の中ですやすや眠っている。そんな猫を箱の中にそっと入れ、布団を畳んでいる日吉の後ろ姿に投げかけられた言葉は、
「なあ、もしよければしばらくここに住まないか? 猫のこともあるし。今日は里親募集のポスター作ろうぜ」
 振り向き、高野の表情を伺うが、そこにはいつもの穏やかな笑顔があるだけで、高野の真意は読み取れなかった。
「え? ボクは嬉しいけど。高野クン、迷惑じゃない? 毎日様子は見に来るつもりだったけど」
「じゃあ、決まりな。また帰ってきたら着替えとりに行こうぜ! それから猫の写真とってポスター作り。な?!」
 にこにこ顔で、強引に決めていく高野につられるように日吉は頷き返した。
(そうだよね。仔猫だけ置いていかれたら困るもんね。ボクが厄介事を持ちこんだんだもん。 猫の世話をする義務があるんだ。高野クンに押し付けるつもりは初めからないけど)
 でもそれは日吉には嬉しい誘いだった。高野と一緒にいる時間は、考えられないほど楽しかったから。
 たとえそれがすぐに終わるとは分かっていても、今はこの現実に留まっていたかった。
「うん。しばらくお世話になります。料理は出来ないけど、掃除はボクがするからね」ふんわりと微笑む日吉に、目を細める。
 高野は日吉の言葉に安堵していた。拒否されたらどうしよう……そう思っていたから。
―― 何故?
(俺……咄嗟にあんなこと言っちまったけど。どうして言ったんだろう)
 確かに引き止めたかったのだ。
―― どうして?
(ただの猫の世話だけを押し付けられていると思ってるんだろうな)
 その実、子猫は予想以上におとなしかったし、手が掛からなかったから日吉がいなくても世話ぐらいは出来る。正直、日吉の印象は強烈だった。
 たった一日。一日しか過ごしていないというのに。違う一面に興味を引かれたのだ。
―― 興味がある
 心を覆った一面の霧は一向に晴れる気配がない。



 猫用フードを少し皿にいれ、二人はマンションを出た。
 校門を入ると、日吉は図書室に用があるといって別れ、高野はひとりで教室へとやって来た。
 授業が始まる直前に戻ってきた日吉は、まっすぐ自分の席に向かう。その姿はもういつもの日吉だった。 休み時間も手にした文庫本をずっと読んでいる。誰も寄せ付けない雰囲気。
(ほんとに今朝までの日吉と一緒の人物なのだろうか?)
 一日中、日吉が気になった高野は知らず知らずのうちに視線を投げていたらしい。
 そんな高野の様子に、気がついている人がひとり。
 クラス委員を務める綱島は、成績も優秀で面倒見が良くみんなからの信望も厚い。 だからといってそれを鼻にかける訳でもなく、さっぱりとした性格の彼は、日吉によく話しかけてくれる人物だった。
 ただちょっと厄介ごとに首をつっこみたがる節がある。 彼の愛読書はミステリー系。主人公より早く事件解決する事に熱意を燃やし、最後まで解けなかったことはないと豪語している。 そんな彼、日常生活においても常に面白そうなことにアンテナを張り巡らしているらしい。
 高野とはとりわけ仲がいい。いつになく考え込んでいる高野の様子が気になったのだろう。
 綱島が声をかけてきた。
「どしたの?」
「いや。別に」普段からは想像もできないくらいそっけない。
「だってずっと見てるだろ? 日吉の事」
 その一言でみんなが一斉に日吉を見た。
 普段、あまり話題に上らない人物の名が、途端に皆の興味を引いたようだった。 急に自分の名前が出てきたことに驚き本から顔を上げた日吉は、自分を見つめるクラス中の視線に戸惑いを隠せない。 ざわつく教室。
「え? なに?」わけが分からず真っ赤になって俯くことしか出来なかった。
 注目を浴びることに慣れていない日吉は、緊張のあまり爪が食い込むほど手を握り締めている。
「そんなに握ってると爪の痕がつくぞ?」頭の上から声がする。見上げるといつの間に近づいてきたのか高野のいたわる様な瞳があった。
「うん……」小さく頷く日吉に、高野は、「帰ろう」と。
 日吉が席を立つと促すように背中を押し、自分もカバンをとってくると騒がしいまでの声を無視して、さくさくと出口に向かった。

「ごめんな。俺のせいで嫌な思いしただろ」
 下駄箱まで来ると高野が急に頭を下げた。
「びっくりしたけど。大丈夫だよ。慣れてないから。ボク、どうしていいのかわからなくて。 でも、声かけてくれてありがとう」
「俺……気になってて。昨日からの日吉ってすごくよく喋るし、よく笑うし。でも学校の日吉って別人みたいだから。 そんなこと考えてたら、綱島につっこまれちまった」
 頭に手をやり、ばつが悪そうに笑う高野は、悪戯を見つかった子供のようだ。
その高野の言葉を日吉は考えていた。
―― 本当の自分?
「自分でもわからないや」
 結局自分でも答えが出せない。でも、高野といると自然に笑えるし話すことも出来る。 人と居る事が苦痛だった日吉にとって、それは新しい発見だった。
「でも……どっちもボクなんだろうね」



 マンションに帰り玄関を開けると、待ち切れないかのようにリビングから仔猫が飛び出してきた。 もちろんみゃあみゃあと音声付だ。
「ただいまー」日吉が仔猫を目の前に抱き上げ、ブルーの瞳を覗き込んだ。
 そして、そのまま高野の顔の前に持ち上げ「高野もただいま、ね」と高野の分も挨拶を交わす。 仔猫は挨拶代わりだとばかりに高野の鼻の頭をペロっと舐めた。
 子猫のそんな行為になれていない高野。
 うわっ、ざらざらしてるぅーと鼻の頭を指で撫でながら大げさに騒いでいる部屋の主はそのままに、 一人と一匹はさっさとリビングに入っていってしまった。
 それからデジカメで仔猫の写真をとり、パソコンの得意な高野が里親募集ポスターを作り上げた。数枚印刷し、それを持って日吉の家に行き、帰りに世話になった動物病院やそのほか目立ちそうな数箇所に貼らせてもらった。
「早く見つかるといいな」明るく言う高野に、一瞬言葉が詰まる。
「……うん。そうだね」
 そうだね……それが目的だったんだよね。
 あまりに楽しすぎてこれがずっと続くものと錯覚していた。
(無理につき合わせてるんだもんね)
 一緒に何かをするのも、家に帰るのも、仔猫がいなくなったら何もかも終わり。目的があれば結果を求める。人は目的を達成するために努力する生き物だ。
 そして終点はもうすぐそこに見えている。
『いつまでも』はないのだ。
 心にわだかまるものに無理やり蓋をして、笑顔で答える。
「きっといい人に貰われるね、あの猫、かわいいから」
 しかし繕った笑顔は、むしろ泣きそうで。
―― 全てを失う日は近い。
 それを考えると胸に痛みがはしった。
そんな日吉の様子を高野が心配げに見つめている。視線を外しながら喋り続ける日吉にはわからなかったが。
「シャンプー買って帰ろうよ。キレイにして上げなくちゃ、嫌われるからね」
「そうだな。じゃあいい匂いのヤツがいいよな。俺が選んでやるよ。行こうぜ」
 明るく笑う高野に、心の奥がキュっと小さな悲鳴を上げた。
 それに気づかれないように笑顔を顔に貼り付け、バイクの後ろに跨り腰を掴む手に力を入れる。現実を逃さないように。
 高野への思いは、自分でもよくわからなかった。
 クラスでも人気者の高野が自分と一緒にいてくれる。誰にも振り向かれなかった自分に目を向けてくれる。  たとえそれが仔猫という媒体で繋がっていたからとしても。



 仔猫を捕まえ浴室に連れて行く。 何をされるのかわかっていない仔猫だったが、シャワーの音にびっくりすると途端に暴れ出した。
「うわっ。大人しくしてよー」
 日吉の声に高野も様子を見に来た。
「大丈夫か?」
 仔猫は高野の姿を見ると、助けてーといわんばかりに足元に隠れ、日吉が呼んでも出てこない。 高野はその小さな塊をひょこっと捕まえると、「俺が抑えててやるから」と日吉に差し出した。 大きな手が仔猫を包み、日吉が声をかけながら泡立てたシャンプー液で優しく泡立ててやる。 それが気持いいのか、しばらくすると仔猫も大人しく洗われている。
 やがて汚れは綺麗に落ち、灰色だった毛色は白に変わっていった。
 タオルで丁寧に水分をふき取り、温風の出るヒーターの前で乾かすとふわふわの毛糸の固まりのような姿を現した。
「ほら、思ったとおり真っ白だね」
―――空。
 日吉は密かに仔猫に『空』という名前付けていた。ブルーの澄んだ瞳が雲ひとつない空をイメージさせたから。
 でもそれは発せられる事はなく、心の中でだけ呼ばれる名前。
「ああ、ふわふわしてやわらかい」
 猫は苦手だと言った高野だったが、数日過ごすうちにすっかり懐かれていた。 猫というのは食べて、寝て、遊ぶ。これの繰り返しだ。呼べは飛んでくるし、怒れば項垂れる。夜中に突然猛ダッシュしたり、ジャンプしたり。 人の顔を見ていたかと思えば、みゃと鳴き声を上げて走りよってきたり。 全てが、高野にとって意外すぎる行動の数々だった。見ていて飽きることのない愛らしい瞳。
 その小さな身体が自分を頼って寄ってくる姿は無条件でかわいい。
 膝の上、小さな舌で毛づくろいしていた仔猫は、 しばらくするとごろごろと喉を鳴らし高野の足の間にすっぽり入ってすーすー寝息を立て始めた。
「かわいいな」
「うん、かわいいね」
 穏やかな時に包まれ、優しい表情で微笑みを交わす二人。
 今だけは、ピリオドが打たれるその瞬間があることを心の片隅に隠して。



 その夜、高野はベッドの上で、ひとり考えていた。
 もし誰かから連絡がきたら?
 あっさり渡せるのか?
 日吉は?
 どうするだろう。猫が唯一の接点だった。
 それがなくなっても今までどおり微笑んでくれるだろうか?
 見つかりそうで見つからない答えを探して、疑問がぐるぐる回っている。
(そういえばポスターを貼り終わったとき、泣きそうだったよな)
「淋しい……か」
 口にした言葉が、日吉の猫に対する心情を思ってのものか、それとも自分自身の心情なのか、 あやふやな気持ちの真実が探せず眉をひそめる。
 ただ……
 日吉の笑顔が自分に向けられなくなったら。
 そう考えたとき、心がざわつく感じがした。それはどんな感情なのか。
「わかんねぇ」強引に考えることをやめると、羊の数を数え眠る努力をした。
 だが、羊を五十数匹迄数えると、日吉の笑顔が浮かび、どこまで数えたかわからなくなる。 そんな事を繰り返すうちに、かえって目が冴えてきてしまった。
「うぅ、だめだ! 眠れねぇよ」
 結局、アルコールの力を借りる事に決めた。冷蔵庫にはビールが冷やしてある。
「またリビングで寝てんだろうな、あいつ」
 そっと部屋のドアを開けると、案の定、リビングに日吉がいるようだ。
 出て行こうとした時、小さな呟きが聞こえ立ち止まった。 日吉が仔猫に何か話しかけているらしい。
「ねぇ、空。他の家に行きたい? ……空は高野のこと好きだよね? ここにいたいよね……」
 仔猫の声は聞こえない。きっと寝ているのだろう。
「ボクも淋しいな。空と離れるのも。高野と離れるのも」
「でも、空はかわいがって貰える人のところに行くのが幸せなんだよね。 それに、これ以上、高野にも迷惑はかけられないよね。…わかってるんだよ ……わかってるんだけど……でも……ずっと……一緒にいたい……っ」
 呟きは途絶え、くぐもった嗚咽が耳に届く。出るタイミングを逃した高野はそっとドアを閉め、再びベッドに横になった。
「俺は――……。どうしたらいい?」
 最後の言葉が胸に残る。
―― 一緒に居たい
 そう言ってた。
(俺も一緒にいたいよ)
 惹かれている、日吉に。
 一緒にいると心が穏やかになるんだ。
「離れる」という言葉に切なくなった。
 どうして離れなきゃいけない? 思わず出て行こうとした。
 心細そうな時は、守ってやりたい。
 辛そうな顔を見ると、心が痛くなる。
 楽しそうに笑うと、嬉しくなる。
 そこには、日吉の一喜一憂する感情に、リンクしている自分がいる。
 日増しに強くなる想い。
 心の奥底に眠っていた気持を探し当てたかのように、もやもやしていた気分が一気に晴れやかになった。
(このまま飼っちまうか。そうだ、一日待って誰も言ってこなかったらこのまま飼っちまおう)
 落ち着いた途端、深い闇に吸い込まれるように眠りについていた。



「おはよう!」高野がリビングに行くと、すっかり身支度を整えた日吉がいた。
「今日は早いな。どうしたんだ?」
「別に……。少し前に目が覚めたから、そのまま起きたんだ」
 きっと早めに起きて泣きはらした目の腫れを冷やしていたのだろう。 でもそれを指摘するつもりはなかったので黙っていた。
「昨日は俺があんなに大声で起さなきゃ起きなかったのに。今日は雨だな」
 と晴れ渡っている空を見上げて言う。
 そんなからかいに、ぷくっと頬を膨らませ拗ねたようにふいっと横を向いた。 そんな仕草を見るのも嬉しくて、もっと構いたくなる。
「あ、怒った? ごめんごめん」
 足元にじゃれ付いている仔猫を抱き上げ、その鼻先で膨れてる頬をつんつんと突付くと、途端に笑顔に変わっていく。
「全然悪いと思ってないだろぅ?」ああ、と飄々と答える高野の腹にグーで鉄拳が飛んだ。 ウッと大げさに倒れる姿に、楽しそうな笑いが部屋に響き、仔猫は鉄砲玉のようにリビングを走り回っている。 幸せの瞬間。
 この笑顔が曇らないように……高野はそう願っていた。
「ほんとに何も食べないの?」
 今朝、自宅でいつも朝食を取る日吉は、昨日買ってきたパンを食べていたが、高野は何も食べずにコーヒーだけで済ませていた。 実家に居た時からの習慣らしい。
「朝からよくそんな甘そうなパン食べられるよな?」
 あごで指すその先にあるのは、日吉が食べているチョコの入った菓子パン。
「ボク、甘いの好きだから。プリンとかシュークリームも好きだよ。高野クンは嫌いなの?」
 うんざりといった顔で「食べるやつの気が知れねぇ」
「ふーん。美味しいのに」
 日吉の食べる姿を見ていた高野は、その頭の上に『!』マークが浮かんだのを見逃さなかった。
(何か企んでやがる)
 案の定、次の瞬間、パンのチョコを指にとって高野の唇の端にピコっと付ける。
「わっ。何すんだよっ」舌でぺロリと舐めた高野は甘めぇーとしかめっ面をしたあと、コーヒーを飲み干した。
 それでも微笑みを絶やさない日吉を見て、こんな朝もいいかも、などと思ってしまうのだった。
 それから二人で仔猫に「いってきます」といい、家を出た。



 昨日と同じように、学校に着くとすぐに図書館に行こうとする日吉の腕を捕まえ、そのまま教室に引っ張っていった。
 日吉は高野といると注目を浴びる。それが嫌だった。 自分のようななんの取り得のない人間が、彼の側にいるだけで陽が当たってしまう。 その日差しは眩しすぎるのだ。
 そんな日吉の性格は充分わかっていた。でも一生人と関わらずに生きていけるわけが無い。
「少しは慣れろ、な」顔を覗き込むように優しく言うが、
「放って置いてよ」教室の入り口で無理やり腕を解き、強引なクラスメイトに赤い顔で抗議する。
 その声が大きかったのか、クラス中の視線が二人に集まった。 『日吉が高野と一緒にいるぅ』『なんでなんでどういう関係?』『昨日も一緒に帰ってたわよ』『大人しそうな癖に高野君に取り入ってるのよ』 口々に発せられる容赦ない言葉に、逃げ出したかった。
 高野を見ると、相変わらずにこやかで。肩をポンポンと叩き「気にするなよ」と。
「キミ、噂になってるんだよ? 平気なの?」
「別に。言わせておけばいいじゃん」
(なんでこんなに平然としていられるのだろう……でも)
―― 少しだけ変わる努力をしてみよう。
 いつもならすぐに俯いてしまうところだ。だが、今日は少しだけ勇気を出してみる。 皆にゆっくり視線をまわし、顔をあげて自分の席についた。そしていつものようにカバンから本を取り出すと何も無かったかのように読み始める。
 高野も席に着くと、その周りはすぐに人だかりが出来た。
 口火を切ったのは委員長、綱島である。
「ところで。急に日吉と仲良くなったのは何か理由でもあるの?」
(またかき回すつもりか?)昨日も綱島の一言で大騒ぎになったばかりだ。
「おまえ、朝から楽しそうでよかったな?」嫌味を言ったつもりだったが、相手は意に介していないようだ。
「久々にすっげー楽しい。で? 何があった?」
 言うまで突付きまわしてやる……綱島の顔にそう書いてある。はぁーと一つ溜息をつくと、仔猫の事故現場に居合わせたこと、世話をしていること、里親を探していることを話した。 ただ、一緒に住んでいることは除いて。
一通り、説明を終わると、『へぇー日吉って優しいんだねー』と皆から驚きの声があがった。
 そっと日吉の方を窺うと、読書に夢中になっているのか話は届いてないようだった。
「猫?」どんな猫? 大きさは? しっぽは長い? 瞳の色は? とやけにしつこく質問してくるのは綱島。
「何? 興味あんの?」
「飼ってた猫が死んじゃったんだよ。去年。おふくろが悲しがっちゃってさ。その猫とよく似てるんだよね、特徴が。 ……ということで俺が飼ってやるよ。今日、一緒に家、いっていいか?」
「え? 飼う? ちょっと待て、里親の」話なんだけど、やめたんだよ……その言葉は続けられなかった。 なぜなら綱島が大声で日吉に止めを刺したから。
「日吉、おまえの猫、俺が飼ってやるから。心配すんな! な?! 今日引き取りに行くから。おまえも高野に纏わりつかれて大変だっただろ?」
 驚きのあまり声が出ない日吉。ゆっくり高野に瞳を巡らす。困ったような表情を見て、『早く決めなければ』そう思った。
「待て! 綱島。その話だけど、」その先もまた遮られた。今度は日吉に。
「わかった。綱島くん、仔猫のことよろしくお願いします」
 席を立ち丁寧にお辞儀をすると、また自分の周りに壁をつくるかのように表情を隠した。 その様子にいらただしげに、日吉の横に立つと肩を掴んだ。
「いいのか?」
「いいも何も仔猫のためだよ。……綱島くんならいつでも様子を聞けるし安心だよ」本から顔を上げずに答える日吉。
「そうか」その声はいつもより低く、怒りが伝わってくる。高野の席からドサっと椅子に座る音が大きく響いた。 いつもにないその様子にクラス中が蜘蛛の子を散らすように離れて行く。
(ボクにどうしろって言うんだよ。どうにもならないじゃないか! バカ高野!)
―― そして仔猫は幸せになりました
―― ハッピーエンド
 主役は真っ白な蒼い瞳の仔猫。脇役の幸せは、求められていない。
(まだ終わりたくない)
 自分の意思ではどうにも出来ないジレンマに胸がかきむしられる。
 決して口にしてはいけない想い。
 溢れそうになる涙を堪えるため、一時限目の数学に集中した。

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