酷い男  2


「こっからそんな遠くねぇから」
 突然、章正が言い、春久が俯いていた顔を上げる。
 そんな気遣いともとれる言葉も、見るからに顔色の悪くなった彼を心配して、というわけではなく、 単なる情報として伝えただけだとわかった。 なぜなら章正の眼差しは彼女に向けられたままで、別に春久を捉えていたわけではなかったから。
「そう」
 場所を訊けば、数十分の場所。それだけ辛抱すればいい。
 春久は握り締めたハンドルに向かって、小さく溜息を吐いた。

「そっち乗って」
 彼女を運転席の後ろに座るように促し、章正が反対側へと向かい後部座席のドアを開ける。
 思わず振り返った春久。その瞳は、戸惑いを色濃く映していた。信じられないというより、むしろ信じたくないというように。 春久は、彼が助手席に座ると思い込んでいたのだ。
「助手席じゃないの?」
「なーんで? 俺がどこに座ろうと俺の勝手っしょ。それとも隣にいてほしい?」
「別にそんなんじゃない」
 視線を落したまま、前に向き直る。
 口元だけを歪める嘲るような笑いに、どれだけ春久が傷ついているか、きっと彼は考えたこともないだろう。
 章正は人の機嫌を伺うような、まどろっこしい遣り方は好まない。
 言葉にしなければ、それきり。いくら目で、心で訴えようとしても無駄なのだ。
 お前、何を考えてるのかわからないんだよな……。
 以前、そんな風に言われたことがあったことを思い出す。
 確かに、考えすぎるあまり、口に出来ないことが多々あった。まず頭で組み立てる。言葉にするのはそのうちの半分にも満たないかもしれない。
 しかし春久にしてみれば、思ったことをすぐ口にする方が希有なわけで、 それに引っ込み思案だとか、人見知りが激しいわけでもないのだ。バイト先でも皆と喋るし、孤立することもない。 周りに与える印象としては、お山の大将的な章正よりも春久の方が格段に良いに違いない。
 人当たりのいい、穏やかな青年。
 少し物静かなだけ。
「早く出せよ」
 バックミラーに映る章正は、じっと春久を見つめている。なんの感慨もない瞳の色。 そこに慈愛の欠片を探そうと思っても、おそらく見つけることは難しいだろう。どんなに目を凝らしても、何時間見つめていたとしても……。
 諦めたように春久はパーキングブレーキを解除した。

〜 〜 〜 〜 

「ぁん、……ダメ」
「いいから」
「ン……、ふっ」
 くちゅくちゅと舌を絡めあう音がする。溜息のような女の吐息。フッと笑う彼の声。愛してる、そんな囁きまで聞こえた。
 衣擦れの音、身体を寄せ合うふたり、重なる影。
 後部座席で何をしているのか、春久自身の目で確かめるまでもない。
 どうして彼女を抱き寄せる?
 どうして愛してるなんて囁ける?
 僕の目の前で!
 なぜこんな時間を過ごさなきゃならないのか、何度も己を落ち着かせようとしてみたが無駄な足掻きと知る。
 女の匂いにも辟易していた。限界値は既に超えている。
 いっその事、このままどこかに突っ込んでやろうか……。
 そんな物騒なことまで浮かんでしまう。
 このまま……?
 そこで、我に返った。
 もしも自分の中で、そうしたいと更に一声起こったならば、アクセルを思い切り踏み込んでいたかもしれない。 その決断は紙一重で、一瞬でもそう考えてしまった自分が恐ろしい。堪らず急ブレーキを掛けた。
 女が助手席の後部に足をぶつけたらしくキャッと短い叫びを上げ、
「何してんのよ! 痛いじゃないっ!」
 甲高い声で騒ぎ立てている。
「なんなの、ねえ、章正。この人、おかしいんじゃない!」
「っぶねぇな」
 一方、章正の静かな声は、逆に彼の怒りを表しているようで。いつもなら、春久は口を閉じていただろう。 怒りを遣り過す一番の方法だから。しかし今はどうにも我慢ならなかった。
 抑えていた感情を解き放つ。
「いい加減にしてくれないか! ギャーギャーギャーギャー、煩いよ、ブス」
 自分でもこんなにヒステリックだったとは思わなかった。 しかし一度入ったスイッチは切ることが出来ず、ひたすらボルテージが上るばかり。
「いちゃつきたいならどこかホテルにでも入ればいいだろっ! 車、置いてってやるよ! 好きなところに行ってくれ」
 自分はどこかでタクシーでも拾おう。
 たとえ夜通し歩くことになったとしても、このままふたりを送り届けるよりはずっとずっとマシだと思う。
 春久がドアに手を掛けたところで、章正が言った。
「ああ。もうすぐ彼女の家だから。ここでいいや」
 どこまでも冷静さを失わないのか。
 冷ややかに言うと、自分は先に降り、彼女の手を引いた。まるで本当のタクシーのように。
「タクシー代、一万円。置いていけよ」
 奥歯を噛み締め、屈辱に耐える。吐き捨てるように告げた言葉は、春久の出来る限りの嫌味だった。 しかし章正はやはり気にもとめない。面白そうにフッと笑うと、その場に彼女を残し、運転席側へと歩いてきた。
 屈みこみ、窓から顔を覗かせて。
「ヒステリーはみっともないな。俺の一番じゃなくても良いって言ったの、お前だろ?」
 どうして追い詰めるようなことを言うのだろう。
 自分が愛した優しげな顔で。
 悔しくて、悲しくて。ハンドルに強く拳を打ちつけた。 じんじんとした痺れと痛みに瞼を閉じ、癒すように己のもう片方の掌で包みこむ。
 そんなに別れたいのなら……。
「も、嫌だ。やめよう、こんなこと、もういい。もういいんだ。別れるから」
 想いを振り切るように首を左右に振った。俯いた唇は、何度も同じ呟きを繰り返す。
 このままでいたら、きっと憎んでしまうから。
 恨み言を連ねることほど醜いものはないと知っている。
 だからそれだけはしたくないと、春久は思った。
「ハル」
 章正が呼ぶ。
 反射的に顔をあげ、見つめてしまう。
「俺にはお前も大事なんだよ……。愛してる。じゃあな。気をつけて帰れよ?」
 言い聞かせるように耳に吹き込むのは、ただの誤魔化し。戯言。春久を縛る呪文。
 そう、わかっている。
 わかっているけれど、その言葉にまた縋ってしまう自分がいる。
 一言に、揺さぶられる。
 彼を、心の底から好きな春久がいて、言葉をありのまま受け入れようとしてしまう。
「うそばっか……」
 助手席の窓から、ふたりの後姿が見えた。
 女性を支えるように彼の手が細い腰に回されていた。
 それを隠す彼女の長い髪。
 頭ひとつ分、章正の背が高く、笑いかける女性の横顔がシルエットとなり浮かび上がる。 それはまるでキスするようにも見え、春久は視線を逸らせた。
 これが章正の望んだ形だとわかっていても、心は認めることを拒否している。認めてしまえば、楽になれるのに。

 ひとりきりの車内で、春久は目元を覆うように両腕をクロスする。
 アキ……。
 唇が形作る言葉は音にはならず、ただ微かに空気を震わせるだけ。
 気を抜いたら泣いてしまいそうで、しかし章正の前では泣きたくないと必死に堪えていた。
 でも今なら。
 泣いたら楽になれるだろうか。
 この痛みの根源を、全て消し去ってくれるだろうか。
 もしも、そうすることが出来るなら、また明日から何事もなかったかのように過ごせるのなら、泣くのもいいのかもしれない。

 夜空に浮かぶ細い月。
 白い月は、薄く棚引く雲に邪魔されてもその存在を失わない。それどころか遮るものに反射した光を受け、一層、輝きを増しているよう。
 優しい光に照らされて、噛み殺すはずの嗚咽が零れて落ちる。

2004/11/19

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