酷い男 7


 朝方から降り続いている雨は、この一時間でさらに激しさを増したようだ。 大きめの雨粒が次から次へと落ちてくる。
 まるで己の心を具現化したような空にますます気が滅入り、青年は何度吐いたかわからない溜息をまたひとつ重ねた。
 夜じゅう持ち続けた負の感情は朝になっても取り去ることは出来なかった。
 最近はこんな日ばかりが続いている気がする。だからと言って自分にはどうしようもなく、 ただ、いつもどおりの日常を過ごすことしか思いつかなかった。
 急がないと……。
 朝からヒアリングのテストがある。
 ちょっとした嵐といえる天気の中、勢いをつけて春久は歩き出した。



 人もまばらな校内。
 ホールを入ってすぐの場所にひとりの男がいる。
 誰かを待っているかのような雰囲気を漂わせながら、少し神経質そうに片足を踏み鳴らして俯き加減で立っている。 左手に持った傘から雫は垂れておらず、それがもう長い間ここにいることを知らせていた。
 今がちょうど一時限目の講義が始まったばかりだからなのか、この天候のせいでサボり続出なのか、それとも偶然そういう日だったのか。どんな理由にしろ、今日は人が少なかった。
 入ってくる者がいたとしても、大体は遅刻で急いでいる人間ばかりで、近くに人がいてもたいして気にしない。 一瞬足を止めるのは休講を知らせる掲示板の前でだけ。そこで予定通りだということを確認すると再び目的の教室まで一直線。そんな光景が男の前で何回も繰り広げられていた。

 トンッ。

 傘先がホールの床に当たり小さな音を立てると共に、足が動いた。
 掲示板の前まで来るとボード上に視線をやる。皆がしていたのと同じように。
 隅々まで見るように、左上から右下までゆっくりと線を辿るように動く視線。
 慌てる様子もない男の行動は、傍から見れば、ただ手持ち無沙汰を埋めるような仕草にとれるだろう。誰の興味を惹くでもない静かな行動。
 そうしているうちに周りは誰もいなくなった。
 後ろを確認する。人が来る気配はない。相変わらず止みそうもない雨が目に入るだけだ。
 今だ……。
 あそらく一瞬であろうその瞬間を逃さず、ジャケットの内側に隠していた紙を広げて空いているスペースに貼り付ける。素早く手際よく。
 そして、一際目立つそれを少し離れては眺め、口の端を上げた。



「……ぁ」
 春久の小さな声は章正の目線のやや下から発せられた。
 ちょうど帰宅した章正と帰ろうとした春久が玄関先で鉢合わせをしたのだ。
 ドアを開けた瞬間に鼻についたアルコール臭。おそらくニメートル先にいてもわかるだろう。 それほど酒の匂いをプンプンさせていた。
 いや酒だけではない。女性ものの香水が章正をその女のものだと主張している。
 春久が眉を顰めた。それが章正の気に障ったのは一目瞭然で、途端に表情が険しくなった。
「こいよ」
 章正は春久の腕を掴むと、そのまま引き摺って行こうとする。向かうは寝室。それは聞かずともわかった。
「アキ!」
 スニーカーに片足だけ入れた状態で彼を見上げていたのだ。足がもつれそうになる。かろうじて体勢を保ったが、 突っかけたままのスニーカーが腕を引かれたと同時に脱ぎ散らかしたように床に落ちた。
 しかし、そんなものに気を取られる章正ではなく、振り向きもしなかった。
「アキ、待って」
 彼は気が向くと、春久を抱こうとした。 まるでそれが義務であるかのように。かったるそうに、笑顔とは程遠い表情を見せながら。
 それでも春久は拒んだことなどなかった。
 そんな表情で始まる行為でも、途中途中で、あるいは眠りに落ちる瞬間に見る彼の顔は優しかったし、 何よりも身体に触れる彼の手が優しかったから。
 だけど今は、
「雨、濡れただろう? 風呂沸いてるから。風呂、入ってきなよ。そうしたらっ」
 女の匂いをつけたままで触られるのは嫌だから、その手を振り解こうと上下左右めちゃくちゃに振り回した。
「今、やりてえ」
 低く囁く。
 酔った章正はいつも以上に傲慢だった。
 しかし春久も言いなりにはなりたくなかった。だから踏ん張り、抵抗する。
「やだっ……、いい加減にしてくれっ! 嫌なんだよっ!」
 半ば叫ぶように言った時、フと腕の力が緩んだ。
 春久が章正を見上げる。
「抵抗すんのか?」
 赤みを帯びた表情はアルコールのせいなのか、怒りのせいなのか。 こんな時でも章正の面は完璧なまでに美しいと、春久は思った。 けれども、そこに優しさや甘さがないのも事実で、静かに視線を逸らす。
 一方、章正はベッドに連れて行くのは諦めたらしく、力の抜けた春久の手を引っ張った。 反動がついた身体は簡単に床に崩れ落ちていく。
「痛っ」
 固いフローリングの床の上。身体を庇ったせいで肘を強打し小さく呻くが、 そんな春久にはお構いなし。自分は寝室へと入るとあるものを手にして戻ってきた。
「なんだよこれ。もうないじゃねえか。これぐらい買っとけよ。気がきかねえな」
 彼が春久の目の前でブンブンと振っているもの。それはいつも使ってる潤滑用のローションだった。
「お前だって、やりたいからここに来てるんだろう? だったらなんで俺が確認しなきゃいけないわけ? お前の役目じゃねえのか?」
 不機嫌さを隠そうとしない瞳が立て続けに言葉を投げつける。
 顎を上げ、目線だけを春久に向ける。見下すようなその態度は横柄であり、横暴で、見るものを不快にさせること間違いなしの態度だろう。
 でも……、と春久は思う。
 そんな態度も自分に対してだけなんだろうな、と。なぜなら友人達といた時は対等だと感じたからだ。
 今の章正は弱者を力で押さえつけようとする暴君そのもの。それが悲しい。
 黙って見つめる春久にフンと鼻を鳴らした章正が続ける。
「今日だってお前が来てると思うから早めに切り上げてきてやってんのによ」
 言葉だけでは彼の怒りはまだ収まらないらしい。
 ラブソファを蹴り上げ、ローションのボトルをゴミ箱に投げつけた。
 元から狙って入れようとしたものではないのだろう。
 全く見当違いの場所に当たって転がるボトルはコロンと一周して、動きを止めた。
「仕方ねえ……。咥えろ。濡れれば入るだろう? もう何回もやってんだから」
 無理やり頭を押さえつけられ、跪かせられた。
 左手が春久の頭を掴み、もう一方の手で前を寛げ、自身を出す。
「や、やだ」
「うだうだ言ってんじゃねえよ。ホラ」
 まだ力のないものを、春久に咥えろという。
 章正を見た。
 見返すのは冷たい眼差し。
「やめようよ。今日はやだ。僕には……。……アキ、お願いだから」
 春久の胸がツキツキと痛む。じわっと涙が浮かんできた。どうしようもなく心が訴えてくる。悲しいと、辛いと。
 こんなことになんの意味があるのだろう。
 これじゃ、
 ただの。
「ただの、暴力と変わらない……ッ」
「はあ? 何言ってんの? レイプだとでも言いたいって? レイプは無理やり。これはプレイ。好きなんだから嬉しいだろう?」
 一言一言が脆くなった心に突き刺さる。
 こんな無理やりは今までに無かったことだ。
 自分が自分でなくなっていく感覚に、顔を伏せた。
「早くしろ」
 端的な命令が頭の上から降ってくる。
 諦めたように彼自身を口にすると、躊躇いがちに舌を這わせる。 少し元気になってきたところで、唇をすぼめ、唾液を含ませながら扱いた。
 テレビもついていない無音の世界。あるのは、己が奏でる恥ずかしい音。
 安っぽい娼婦みたいだ……。
 春久はぼんやりと思った。
「下手だよな……。全然感じねぇし。今度、他の男で練習してこいよ? お前狙ってるやつ多いって知ってた? 俺じゃなくてもいいんだよな、お前は」
「っう、」
 頭を固定されたまま、腰を前に突き出され思わずむせそうになる。
 それでも許されない。
 激しく動かされ、口の中のものが膨れ上がる。
「ふ……、っ!」
 頭上から漏れ聞こえるのは、言葉を噛み殺すような悦楽の証拠。
 感じてる……。
 そう思うと、こんなことをされててもやはり嬉しかった。拙いなりに快感を与えてあげたいと思ってしまう。
 そんな風に感じる自分は変態なのだろうか……。
 一瞬、脳裏を掠めた疑問に自嘲した
 全体を含むのはさすがに無理だから手を使い、滑らせる。積極的に舌を絡ませ、舌先で先端を突付き、吸い上げた。溢れ出る苦味に身構えたが。
「っ……、も、いい」
 急に髪を引かれ、後ろに仰け反った。
「ア…ッ」
 唾液が唇を濡らし喘ぐさまは酷く淫猥で、そのくせ怯えるように瞳を揺らす表情は彼の被虐心を一層煽る。
「入れてやる」
「っ無理、やだ、やめっ、なんでこんなことするんだ」
 逃げようと身体をかわす春久の服をつかみ、上に圧し掛かる。カチャカチャとパンツのベルトが外され下着と一緒に一気に下ろされた。
 露わにされた白い尻。
「ひくついてんじゃねえの?」
 嘲笑され、容赦のない言葉に涙がこぼれた。
「やめてくれよ、アキ、アキ……ッ」
「お前なんかもういらない」
 その瞬間、春久の世界が真っ白になった。
 言葉が思考を奪い、脳を麻痺されていく。
 何を言われているのか、全てが遠いことのように思えて。抵抗することさえ、忘れていた。
「はいんねぇ……。つか、ほんと男って面倒。女みたいに自分で濡れてくれればいいのに」
 荒い息を吐きながら無理やり挿れそうとする男は何度も滾ったものを押し付け、攻めようとする。
「くそっ。なんなんだよ。どいつもこいつも馬鹿にしやがって」
 しかし頑なに拒まれ続け、ようやく諦めたのか腰に回した手を外した。

〜 〜 〜 〜 

 しばらくどちらも無言だった。
 先に沈黙を破ったのは章正。自分のものを収め立ち上がる。
「やめたやめた。あーあ。風呂でも入るか。……あ、そうだ。この間、いいクリーム手に入れたんだった。今度、それ試してみような? ハル」
 春久は章正の変化に戸惑っていた。己に笑いかけ、ひとり風呂場へと向かう章正に。
 下だけ肌蹴られた格好の春久は、のろのろと身体を起こすと身支度を整える。
 零れる溜息が、ひとつ。
 どうしてこんな目に合わなければならないのだろう。
 どうして?
 ああ。
 そうか……。
 いらないと、そう言われたじゃないか……。
 あまりにも単純な答えに笑いたくなる。無性に可笑しくなった。
 可笑しいのに、何故か目の前が滲んで。
「すごい嫌われよう……」
 呟きが悲しげな色を帯びた。

 部屋の片隅に投げ捨てられたローションのボトルが視界に入り、そのまま視線を横にずらす。
 ゴミ箱……。
 そこに鎮座する銀色のバケツを見る彼の口元が、緩やかに笑みを作る。
 バケツをイメージしたゴミ箱はアルミ製で、いつか春久が買ってきたものだった。この部屋に合いそうだと、そう思ったから。
 そして首を捻ると章正が蹴り上げたソファがあった。

『これ触ってみろよ、ハル。すっげ、気持ちいい』
『ほんとだ、気持ちいいね』
『お前もそう思う? よし、買うか』

 そんな会話をしたことを思い出して、また笑みを深くした。
 座ると重みで形が変わるというビーズ素材の特殊なソファは、一緒にホームセンターに行った時、面白がった章正が衝動買いしてしまったものだ。
「これも」
 テーブルも、一緒に買いに行って、
「これも」
 テレビ台も、目覚まし時計も、いつも使ってる箸も茶碗も湯のみも……。
 その他の視界に映る小物たち。
 ここにあるほとんどのものは、春久と章正が付き合いはじめた頃に一緒に買い求めたものだった。

 頬を伝う涙は止まらない。次から次へと、流れ落ちる。

 どうして忘れていたのだろう。
 あの頃が楽しくて、幸せだったってこと……。


 過去はもう戻らないってこと――……。

2005/02/20

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