酷い男 8
「メシ」 風呂から上がった章正が、タオルで頭を拭きながら出てきた。 「ハル?」 姿がない。 「ハル〜」 押入れを開けたりトイレを覗いたり。狭い部屋に隠れるところなどないというのに探してみる。 そして一通り見て周り、やっと状況を飲み込んで。 「帰ったのか」 それはまるで自分を納得させるかのような響きだった。 己のしたことを思えば当然の結果であっても、どこか信じたくない気持ちがあるのかもしれない。 それだけこの部屋には春久の気配が色濃く残っていた。 テーブルの上にはきちんと夕食の支度がしてあった。おかず類にはラップがかけられている。 そのラップが白く曇っているのはまだ温かさが残っているからだろう。 綺麗にセットされたひとり分にしては量のある食卓。あとは味噌汁を温めて飯をよそえばいい。それも春久がいればやってくれることだが、帰ったのなら仕方ない。 今日は魚か、などと暢気に思った時、箸の下に置かれた小さな紙に目が留まる。 「なんだ? 箸置きかよ?」 そのアイデアに笑いそうになりながら、つまみあげればコンビニのレシートだった。ふたつ折にされていたものを開くと数百円分の明細が記されている。今日の彼の昼食らしい。 弁当と飲み物と、お菓子。春久がよく口にする飴だとわかった。 「好きだよな」 フッと章正が笑う。 初めて春久に逢った日。アパートの場所に連れて行った礼にと差し出されたのが飴だった。 お礼に飴って……。 一瞬面食らったことを覚えている。 その後は爆笑。予想外の品、しかもポケットに入れていたことが可笑しかった。その小学生のような行動に腹が捩れるほど大笑いをして。 子供っぽい行為はもちろんのこと、真面目な顔が戸惑う様子もまた酷く心に残っていた。 しばし思い出に耽り、それから何の気なしに裏返して。 口元に湛えていた笑みが消えていく。 垂れた指先から床に落ちる紙。ユラユラと左右に振られながらゆっくりと落ちていくさまを感情の消えた眼差しが追い、 「一緒に食べてから帰りゃいいのに」 今更の、どうでもいいことを呟いていた。 木曜日は、いつも春久が来ることになっていた。 部屋を片付けて風呂を掃除してご飯を作って……。まるで旦那さんを待つ奥さんみたいに、自分が帰ってくるのを待っているのだ。 幸せだと感じないわけじゃない。感謝もしていた。 それなのに、以前ほどその気持ちを表せなくなってしまった。 大学でホモの噂がたってから。 〜 〜 〜 〜 二ヶ月ほど前になるだろうか。初めは悪戯メールが出回ったことから始まる。 「坂口章正はホモである。周りの男は気をつけろ!」 そんなふざけた文章で、章正の友人はおろか、顔と名前の一致しない人間にまで配信されていた。 これが誰の仕業なのか章正に心当たりはなく、結局、噂の出所はわからなかった。 春久と付き合っていることは事実だし、やることもやっているから、そう言われても仕方ないのだろう。 しかし陰口のようにホモと言われ、人が通るたびに後ろ指さされる。その衝撃は章正のプライドを傷つけた。 昔から人気はあった。スポーツも得意だし勉強もそこそこ出来て、常に日の当たる道を歩いてきたのだ。 それが降って湧いたように誹謗中傷の渦の中に放り込まれて。 くだらないと鷹揚に構えるほど、章正は人間が出来ていなかった。 突然のことにどうしていいのかわからずに。 ホモじゃないと大声で叫ぶ代わりに、女遊びが激しくなった。 それが一番手っ取り早い方法だから。同じような状況になった時、きっと誰もが考えるであろう一番安易な考えに落ち着いたのだ。 寄ってくる女、全てをものにした。 女には不自由していない。声をかければ百発百中、ものにできると自負していた。 この顔で、愛してると囁いて靡かない女はいなかった。 愛してるなんて言葉は章正にとってただの挨拶に過ぎない。上辺だけの付き合いに、上辺だけの囁きならばいくらでも言えた。 それならば春久に言った言葉にも心は無かったのか? そうでもないかもしれない。愛しいと思っていたかもしれない。けれど、それを認めることは章正には難しいことだろう。ただの気の迷いと決め付けている今の彼には。 今はいないけれど、すぐに心から愛せる彼女だって出来る。 本当の恋が出来る。 春久なんていらない。 消えてくれ。 華麗な経歴に汚点を残すわけにはいかないのだ。 男は春久しか知らない。それも興味半分で抱いただけ。元々はノーマルだったのだから、今からでも戻れる。春久さえいなくなれば。 いなくても全然困らない。 だから別れを切り出した。己にそう言い聞かせながら。 しかし春久に別れを告げたとき、彼は同意しなかった。これには意外だった。女のように縋られるとは思わなかったから。 それ以来、わざと冷たく接してきた。ふたりで出かけることもなく、逢うのは章正の部屋のみ。それも限られた日の限られた時間。 恋人とは程遠い付き合い方でも春久は文句を言わない。どんな酷い仕打ちをしても彼は離れなかった。それどころか、今までと変わらず甲斐甲斐しく世話をされた。 居心地のいい部屋に、心の篭った食事、それが週に一度といえど約束されているのだ。 それも彼が好きでやっていること。 これで付け上がらない男などいるだろうか。 それならそれでいいと思い始める。手放すのが惜しいと思ったことも確かだったから。 春久が別れたくないって言ったから……、自分のずるさを正当化する言い訳を用意していた。 そんな風に言い訳することで己の立場を守っていた。 初めの噂から時が経ち、一旦は消えた噂。それがまたぶり返した。 今日のことである。 皆が見る大学の掲示板にデカデカと張り出されたのだ。 『この男はゲイである』 太字タイトルの、章正の顔写真入りでポスター並みに良く出来たビラが。 章正が気づいた昼までの間に一体何人の目に晒されたのだろうか。 むしゃくしゃした彼は浅岡達を誘い、酒に逃げて。 酔っ払って家路につき、春久の嫌悪感漂う瞳を見た瞬間、自分を見失っていた。 〜 〜 〜 〜 失うことは承知の上。彼に別れを告げた日から。少し長引いただけ。 きっと潮時だったのだろう。自分にとっても春久にとっても。 現実として、ここに春久はいない。 「清々した……」 己の放った呟きが耳に残る。 言葉とは裏腹にすっきりしないのは何故なのだろう。 自由を望んでいた。そしてその通りになったというのに。 そう仕向けたのは自分なのに。 なんだろう、この息苦しさは。この気持ちの昂りは。 わけのわからない喪失感に苦く笑い、 「すぐに慣れる」 低い声音は部屋の片隅へと吸い込まれた。 「ハル……」 未だ止むことのない雨。この土砂降りの中をどんな顔をして帰って行ったのだろうか。それを思うとまたぎゅっと胸を締め付けられてしまう。 静かに微笑む春久の温かな笑顔が浮かんだ。 自分の前では涙を見せなかった春久。 その春久が泣いていた。 もっと前に別れていれば、こんなに拗れずにすんだのか。 いや、どちらにしても。 保身の為に、春久を傷つける道を選んだことに変わりは無い。 床に落ちた紙に走り書きされた文字が歪んで見えた。 さよなら もう、手を伸ばしても届かない。 |
2005/03/01
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