酷い男 9


 鍵穴に差し込みガチャリとまわす。部屋に入ると後ろ手に鍵を閉め、玄関の電気をつけて……。 そんな機械的な動作の後、そのまま電池が切れたかのように春久は立ち尽くした。

 春久の手の中にあるふたつの鍵は自分の部屋と章正の部屋のもの。 そのふたつはシンプルなキーホルダーに付けられていた。
 鍵。
 部屋に戻ってくる時はいつでも目にしていた相手の鍵。それももう必要なくなってしまった。
「返さなくちゃ……」
 狭い室内に響く声。
 輪っか部分から銀色の鍵を抜き取ると小さな下駄箱の上に置く。
 カチャ。
 微かな音に誘われるようにすぐ傍に水滴が落ちた。春久の手から伝った水滴だ。
 彼はずぶ濡れだった。傘もささずに歩いてきたのだ。 しかし自分が濡れていることにも気付かぬように、彼の瞳は虚ろに鍵を映し続ける。
 郵便ポストに入れようか。
 ふと浮かんだ考えに首を振る。無くなったら大変だし、泥棒に入られでもしたらそれこそどう詫びていいのかわからない。 やはり手渡ししなければならないのだろうが、今はまだ面と向かって彼に会うことなど考えられなかった。
 あんなに嫌われていたなんて……。
 しかし、いらないと言われてすぐに吹っ切れるほどの想いならば、初めに別れを言い出された時点で頷いていただろう。
 もう少しだけ持っていてもいいだろうか。
 三日、いや、せめて一週間。
 そのくらい時間があれば、情けない顔を晒さないで済むかもしれない。だけど今は駄目だ。己を保つ自信がない。 章正の前では泣かないと決めていたのに涙を見せてしまった今の自分には。
「アキマサ……」
 もう一度だけと愛しい名前を紡ぐ声は震えている。
 今まで感じたことがないくらいに深い深い想い。
 章正の仕打ちは確かに辛かった。苦しいと思った。 けれど、だから嫌いになったかと問われれば、そうではない。大切に温めてきた想いは簡単にはなくならない。 むしろどれほど好きなのかを思い知らされるだけなのだ。
 雨に濡れたままの姿で玄関の床に蹲った。
 今でも。
 この瞬間でも。
 まだ……。
「大好きなんだ……」
 膝を立て、背中を丸めて顔を埋める。そうでもしないとみっともなく声を上げて泣いてしまいそうだった。
 忘れなければ。
 別れを告げてきた。
 小さなメモだけれどちゃんと見てくれるだろう。そしてそこにある言葉も単なる挨拶でないことぐらい彼にならわかるはずだ。 どれほどの思いで書いたかはわからなくても。
 明日から章正の予定は入らない。思えば、バイトが終わって章正の部屋で待ってる時間はとても大切な時間だった。
 章正がいたからこその春久の日常。
 美味しいと言わせたくて料理の本を買ったり、笑顔を見たくて面白い小物を探したり。 愛してると言って欲しくて自分から求めたし、また求められるまま身体を開いた。
 幸せな日々。
 胸を締め付ける痛みに耐えるように、膝を抱える腕に力を込めた。
 朝になれば消えて無くなってくれるだろうか……。このキリキリとした痛みは。
 壁に手をつきながらノロノロと立ち上がると部屋に上がり、そのままベッドへと倒れこんだ。




 目を覚ましたら全て夢だった。


 悪いことが起きると決まって人々はそうあることを望むだろう。長い悪夢を見ていたと。
 春久も例外ではない、目を覚まして一番最初に思ったのは「夢ならいいのに」ということだった。全て現実だとわかっていたからこそ夢であることを切に願うのだ。
 瞼が腫れているのだろう。視界が狭く、酷く重い。
 起きよう。
 頭を振り、ベッドから片足を下ろし自分の姿に苦笑した。服は皺くちゃで、しかもなんだかまだ湿っぽい。
 ボロボロだ……。
 朝から風呂に入る習慣はないけれど今の自分はかなりズタボロの状態だ。学校に行くにはまだ時間がある。熱いシャワーを浴びよう。 そうすれば少しはマシになるだろう。この疲れきった心も身体も。
 冷たいタオルを顔に乗せてゆっくりと風呂に浸かった。
 カラスの行水の春久にしては珍しく三十分も入ってしまった。 それでも気分回復には程遠く、やはりあれこれと、何がいけなかったのかと考えてしまう春久だった。

 冷蔵庫に入っていたオレンジジュースをグラスに注ぎ、一気に飲みほす。 はぁ、と一息ついて空のグラスをシンクに置き、部屋に戻ってきて。
 テーブルの上の携帯に目がいった。着信ランプが点いている。
 章正かもしれない。
 咄嗟にそう思い、鼓動が早鐘を打つ。
 ここ最近では彼から電話が来るなどなかったことだ。それでも彼からだとしたら、昨日のメモが気になったのか、それとも彼の行動を気に病んだか。
 もしもそうなら自分はなんと答えればいいだろうか?
 もしもやり直したいと言われたら?
 ギュッと拳を握り締めると携帯を手にして二つ折りのそれを開いた。
 緊張の所為で震える指先。
 着信記録が表示され。
 思わず止めていた息を吐き出した。
 そこにある名前は章正ではなかった。

〜 〜 〜 〜 

「もしもし」
『水嶋? 朝からごめん』
「ううん。どうしたの?」
『今日の予定はどうかなと思って。また食事でも行かないかなって』
「僕と……?」
『変なヤツ。水嶋に電話かけてて、水嶋と喋ってるんだから、君以外に誰がいるの? それに掛け直してくれたのは貴方でしょう?』
 茶化しながら話す浅岡。
 声が優しかった。
 春久が望むからそう聞こえただけなのかもしれない。優しくされたいというのは己の願いだったから。
『もしもし? 聞こえてる?』
 反応無く、黙りこんだ相手に問いかける。彼の不審そうな声音で我に返った。
 慌てて春久は声を出す。
「あ。聞いてる」
『なんか元気ないね。大丈夫? 具合悪い? それなら無理しない方がいいか。また』
 相手の声の調子からそう判断したのだろう。自分で納得し、深く追求することなく浅岡が引こうとする。
 そして春久は。
 昨日の今日で弱っていた。
 そんな時に掛かってきた電話。穏やかな声。向こうの表情がわかるような明るい会話。思いやりに満ちた一言。求めていたものがすぐそこにある。
 考えるより先に呼んでいた。
「っ! 浅岡さんっ」
『うん』
 しかし咄嗟に呼びかけはしたものの、春久が口ごもる。 そして相手はそんな春久を急かすことなく続きを待っていた。互いの沈黙が数秒流れ、幾分落ち着いた様子で春久が告げる。
「今日……、バイト忙しい日だから。行けない」
『そうか。わかった。それなら仕方ないよな』
 浅岡の了承に「うん」小さく相槌を打ち、続けた。
「また、今度飲みに行こう」
『社交辞令みたいな言い方だな』
「違うよ」
 相手の声に笑いが混じり、己の肩の力も抜けていく。普通に話せていると、春久は安堵した。
『じゃあ次は絶対に』
「うん」
 また連絡するよ、そう言って電話が切れた。

 良かったんだ、これで……。
 小さな機械が手の中からすり抜け床に落ちる。力尽きたように春久はその場に座り込んだ。
 本当は誘いに乗ってしまいたかった。
 誰の誘いでも良かった。バイト仲間でも学校の仲間でも、誰でも。 大勢の中にいれば安心できる。気を紛らわすことができるから。
 だから引き止めるように呼びかけた。行くよ、その一言を言うつもりで。それを言わなかったのは、僅かに感じた疚しさなのかもしれない。まるで利用するような、そんな罪の意識。
 もしも浅岡が春久に好きだと告げていなかったならば、春久は今日の誘いを拒まなかっただろう。 なぜなら、ひとりになりたくないと思っているのは確かだったから。
 寂しい。
 それを忘れたい、埋めたいと思うのは決して悪いことじゃない。 ただそれは自分の都合であり、誰彼構わず求めていいものだろうか。
 あの日、一緒に飲んだ帰り道、彼から告げられた「好きだ」という言葉。それを春久は忘れることは出来なかった。
「好き」にもいろいろな意味があることを知っている。 愛情を伝えたい時はもちろん、挨拶程度で使うことも、己を偽る為に使うこともあるだろう。
 そして浅岡の一言は、普段と違う彼の表情から、少なくとも軽々しく口にしたものではないような気がした。
 だからこそ彼に寂しさをぶつけるような真似はしたくない。今はまだ前を向く余裕がないから、自分自身の心も迷ってしまいそうで。

 いつの間にか時計の針が出かける時間をさしている。
 春久は緩慢な動作で立ち上がると玄関に向かい、たったひとつになってしまった鍵を掌で握り締めた。
 心に受けたダメージは大きなままだ。
 それが癒えるにはまだ時間が掛かるだろう。
 けれど、傷口は自然と塞がり、どこが傷だったかなんてわからないぐらいに綺麗に治るものだ。今は痛みしか感じなくても。
 昨日より今日、今日より明日。一週間先、一年先。十年先。
 章正への想い全てが過去形に変わるその時、己は穏やかな気持ちで振り返ることが出来るだろうか。こんなに愛した人がいた、と。
 遠い遠い未来だろうけれども、そんな日が来ればいいと思う。笑いあえる未来が欲しい。
 だから、
 進もう……。
 春久は思う。
 だって、それしかないのだから。

2005/03/08

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