酷い男 10


 つけっ放しのテレビからは、今人気のお笑い芸人が軽妙な語り口で観客の笑いを誘っている。
 何か一声発する度にドッとあがる笑い声。
 その騒々しいまでの反応に、画面を見ていた男は一歩遅れてフフと笑った。
 番組を楽しんでいるのかと思えばそうでもなさそうだ。
 視線は賑やかな場面に合わせられているが、映像として捉えている光景は別のものとでもいうように、笑いのタイミングがずれているし、 瞬きが少ないのも物思いに耽っているからだろうと見て取れた。

 あの慌てっぷりときたら……。
 男が思い出しているのは、あの掲示板での出来事だ。電波に乗って流れてくる他人の笑い声も男の楽しげな表情を煽る。
 よく出来た張り紙だったな……。
 自画自賛。男のにやけ笑いは止まらない。
 章正の絶句した顔は見ものだった。そう、胸がスカッとするほどに。
「ザマアミロ」
 端整な顔には似つかわしくない、人を小ばかにしたような笑みはどこか屈折したものを感じさせる。
 男は手にした缶ビールを口元に運ぶとグイッとあおり、一旦、銘柄を確かめるように目の前に掲げた後、またすぐに口をつける。 そしてチリチリと焼けるような喉の刺激を楽しみながら一気に流し込んだ。
 いつもと変わらない飲み物なのに、高揚感からかやけに美味しく感じる。最後の一滴まで飲み干し、次のビールを取りに冷蔵庫へと向かう。
 カウチに座ると、プルトップを開ける。プシュと小さな音が鳴った。そしてまた視線は画面へと戻っていく。
 身体を張った芸に客席は大騒ぎだ。それでもやはり男の眼差しはどこか遠くを見ていた。

 男の脇にパンフレットがある。英語で書かれたものと日本語で書かれたもの。さまざまな書式のそれらは留学用に準備されたものだった。
 あと二ヶ月もすれば自分はここにいないだろう。
 向こうの大学に行く手配は既に整っていた。
 瞳に冷たい影を宿して、男が笑う。
 思い浮かべるのは屈辱に歪む章正の表情か。

 さあ、苦しむ姿を見せて楽しませてくれ……。



「春久君、次頼むね」
「はい。行ってきます」
 青年がオーナーに明るく答える。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 狭いカウンター内から先輩女性の高木が声を掛けた。
「はい」
 微かに浮かんだ微笑みに彼女も笑顔で応えて、自分の作業へと視線を戻しかけ、再びこっそりと彼の背中を見遣る。
 彼女だけでなく、頷きながら足早に店外へと歩き出した春久の後姿をオーナー初め、仲間達が一瞬手を止めて見送っている。 その表情は一様にホッとした様子だった。

〜 〜 〜 〜 

 春久が章正に別れを告げてから五日。
 いつもと変わらずバイトに勤しむ春久の姿がある。
 掃除をしたり、生地を練らせて貰ったり。 ひとつひとつのことに集中することで過去へと飛んでいきそうな意識を欺くように熱心に仕事に取り組んでいた。 忙しく動いている方が忘れることが出来るから、 配達がない時にもなんだかんだ用事を見つけては身体を動かしていた。
 しかしどんなに目の前のものに意識を合わせていても、オーダーの電話が入ればピタッと手が止まってしまう。 まるで全ての神経が聴覚のその一点に絞られ、他の機能までは行き渡らないとでも言うように。
 もし、これが章正からだったら……?
 オーナー夫人と顧客とのやり取りに耳を澄ませながら掌に汗が滲んだのは一度や二度ではない。そして 、お前のとこのピザ美味いからと、良く注文してくれていた声を思い出したのも。
 会うのは怖い、でも……。
 普通に考えれば別れ相手のバイト先になど近づきたくもないだろうが、章正ならそんなこと気にしなさそうで、春久はつい仮定の話を膨らませてしまう。 結局はそれも杞憂に過ぎないのだが電話の度に「もしも」は尽きなかった。
 思う相手からの電話でないことに何故かガッカリし、そして安堵の溜息を吐く……。これがここ数日繰り返されていた光景である。
 簡単に揺さぶられる己の心。
 折角忘れようと努力しても電話のコール音ひとつで無に返されてしまうとは、なんとも滑稽で馬鹿馬鹿しいではないか。
 しかし自分でそう感じていたならば、もう少し生気のある顔つきになったはずだ。
 それでも、僅かだが己を取り戻すようになったのも確かで、一日目に比べたら格段の進歩だった。
 別れた直後は、突発的に何をしでかすか分からない危うさがあった。
 何をしても上の空で憔悴しきった様子は、元々の色の白さも手伝って、余計に儚げに見えていたようだ。 思わずオーナーが刃物を彼の目につかないように隠したほどに。
 もちろん心配していたのはオーナーだけではない。バイト仲間もそう、オーナー夫人もそう。ふと考え込む彼の姿を、痛々しい思いで見つめていたのはこの空間にいる全員だ。

 そんなことに当の本人が気付いたのが今日のこと。
 シャツの裾に糸のほつれを見つけハサミを探して文房具入れを開けた春久、しかしいつもの場所にハサミはなかった。 それならカッターはというと、それもない。 オーナー婦人に聞くとやってあげるからと別の場所からハサミを取り出してきてパチンと糸を切ってくれた。
 その後、手持ち無沙汰を埋める為、野菜を切ろうとして厨房に入ったもののナイフが見つからない。 オーナーに聞くと今日の分はもう無いと言われ、ここはいいからと笑顔で追い出された。
 あれ、と思った。
 そして顔を上げてぐるりと回りを見渡せば、いくつもの心配げな面があり。 態度。視線。口調。雰囲気。それらの全てから、春久は皆に見守られて過ごしてきたことを知った。 そして今現在も細心の注意を払われている、と。
 だからこれではいけないと、思うようになった。ようやく……。その間、五日。 心は未だに穏やかではないけれど、気を緩めれば涙が滲みそうだった時は、笑顔で誤魔化せるようにまでなった。それは少しずつでも、確実に時は流れている証拠だと言える。
 章正の中からはあの日、あの時から自分の存在など綺麗に忘れ去られていることだろう。
 彼にとっては便利な人形だから。
 操りやすくて文句の言わない人形を章正は欲しかっただけだから。
 従順な人間を探すことは難しいだろうが、何も自分である必要もない。
 それでも良かったけれど。それでもいいと思ったけれど……。
 わかってたはずだからそんなことでは傷つかない。ただ、もうそれではいけないのだと、春久は己に言い聞かせた。上を向いて歩く為に。
 未だ返せずにいる合鍵。
 これがあるから忘れられないのだ。
 次の電話が章正でなかったら、鍵を返しに行こう。
 そんな賭けを自分自身としたのは一時間前。
 そして彼は今、バイクに乗っている。向かう先は、赤ん坊のいる幸せそうな四人家族の常連の家だ。
 今夜、章正に逢いに行こう。
 冷たい風を身体全体に浴びながら春久はそう決めていた。



 章正が春久に別れを告げられてから五日。
 今日の講義を全て終え、カフェテリアで一服しながら、これからどうしようかと思案していたところを彼女に見つかった。
 隣に座られると、いつもつけている香水が漂ってくる。その瞬間、章正の唇からフッと小さな笑いが零れ落ちた。
 強烈な女の匂いは春久のもっとも苦手なもの。それを知ってて、わざと女を抱き寄せたこともあったと思い出したのだ。
「なあに?」
 しかし彼女は、章正がまさか脳内に別の男を描いていたなどとは露ほども思わずに、小首を傾げて可愛らしく笑いの意味を問うてくる。
 けれど、女の満足げな微笑みを見れば、返事を求められているわけではないということもわかり、章正は特に気にする素振りは見せなかった。 勝手に解釈すればいい。 自嘲気味なそれも彼女にかかれば、自分に逢えて嬉しいから照れ隠しに笑ったのね、そんな風に受け取りかねないけれど、別にどうでも良かった。
 弁解したり宥めたり。そういう関係にはないのだから。
 短くなったタバコを灰皿に押し付け、上を向いてはぁと小さく息を吐いた。なんだか疲れた。最近はあまり眠れなかったからかもしれない。
「ねえ、章正。今夜、私の部屋に泊まりにこない?」
「……ああ」
 しな垂れかかる彼女に視線を流すこともせず、曖昧な言葉を返していたが、不意に手の甲に温かさを感じて目線を戻した。 テーブルの上に置いた章正の手の上をゆっくりと指先が撫でていた。
 ラメを散りばめた爪がキラキラと光っている。
「今日はいつものクラブで遊ぶつもりだったけれど予定変更。機嫌のいい章正は珍しいから」
 いつもそっけなくてつまらなかったの、と拗ねられて。
 別に機嫌がいいわけじゃない。むしろ最悪……。
 反論は心に留め、これ以上悪い方向へと傾かないように、彼女の手入れの行き届いた綺麗な手が自分の肌を撫で上げる様子を脳裏に描いてみた。背中に回される細い腕を、腰に絡まりつく長い脚を。
 そして彼女の顔を正面に見据える。
 少しきつめの眼差しは僅かに潤み、ふっくらとした艶やかな唇が官能的な笑みを浮かべている。全身で誘いかけてくることが何故か可笑しい。
 章正の心は高まるどころかどんどんと冷めていくばかり。
「そんなに俺が欲しい? どうして? 顔が好み? それともセックスがうまいから?」
 そんな嘲笑でも耳元で囁いてやれば、頬を赤らめうっとりとした表情となる。思わず吹きだしてしまいそうだ。
 ハルの方が……。
 すぐに忘れると思っていた。なのに、こんなにもまだ覚えている。淫らな顔も、切なそうな顔も、最後に見た泣き顔も、はっきりと覚えている。 よく思い出せないのは彼の笑顔だけだった。
 春久……。
 何かに逸り、焦る気持ちはある。それでもどうしたらいいのかわからない。
 俺はどうしたいんだろう……。
「貴方が欲しいわ」
 睦言のように囁き、立ち上がると章正の手を引いた。
 彼は軽く頭を振って立ち上がる。何も答えが出ないままに。

2005/03/23

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