酷い男 11


 バイトから戻り、鍵を持ち、春久は章正のアパートへと向かっていた。 夜遊びしていなければいそうな時間、それにあわせて自分の部屋を出たのだ。
 気合を入れてきたつもりなのに、近づけば近づくほど足取りは重くなる。 とぼとぼと。わずか十分足らずの距離を何十分もかけて歩を進め、終いには、いなければいいな、そんなことまで思った彼だったが。
 着いてしまった。
 アパートを見上げる。彼の部屋には電気がついていた。
「いるんだ……」
 すごく久しぶりの気がする。
 第一声は何と言ったらいいだろうか。自分はいつも何と言っていただろうか。それが思い出せない。
 こんばんは……、でいいかな。
 妥当な線だ。すぐに鍵を差し出すよりはいいだろう。こんな簡単な挨拶なのにすぐに出てこなかったことに苦く笑い、そして思う。 自分は彼に逢った時、うまく笑えるだろうか、と。
 なんとなく平気なようには思う。しかしそれもここに彼がいないからそう思うのであって実際に目の前に立たれたらどうだろう。あの冷たい眼差しを向けられたら声も出るかどうか……。
 そんなことを言っていては何も出来ないのだけれど、せめてうろたえないぐらいの冷静さは欲しい。いつも彼の前ではおどおどしてしまう自分がいるから。 そう思うと心配になってしまう。
 駄目だ、駄目だ!
 いつまでたっても堂々巡りなその考えに首を振った。そして大きく息を吸い込みゆっくりと吐き出す。自分を落ち着かせる為に。
 鍵を返し、さよならと告げて帰る……。
 その一連の動作を頭の中でシミュレートする。
 大丈夫、ちゃんとできる。
 ついで唇を左右に動かし強張った頬の筋肉を緩める体操をし、ひとり夜道で笑う練習を繰り返した。

「あれ?」
 声がして振り返る。そこには浅岡と田辺が並んでいて、ちょうど春久に向かって歩いてくるところだった。
「浅岡さん……」
「どうした? ……もしかして章正に用事?」
「え……?」
 どう言ったらいいのだろう、咄嗟に考えを巡らしてみる。
 用事には違いない。しかしピザの配達ならいざ知らず、届け物は鍵なのだ。ふたりの関係を知らしめるもの。他人に知られていいようなものではないだろう。 浅岡には感づかれているようだったが。
「通りがかっただけ……。コンビニ行くのに通り道だから」
「そうなんだ。でもどうせなら一緒にどう? ちょうどつまみもたくさん買ってきてあるし」
「俺達も、今来たところだから。あいつが急に飲みに来いなんて集合かけるからさ」
 浅岡の言葉を引き継ぐように話し出した田辺もにこやかな笑みを崩さない。
 誘いかけるふたりに、春久は慌てて首を振った。
「明日も早いから」
「本当に……、用があったわけじゃないんだよね?」
 そう言う彼の顔はどこか晴れなくて春久は相手を見つめてしまう。
 やはり想ってくれているからだろうか。
 ボロボロになった日に電話があったきり、何の誘いもなかったからそんなことを考える余裕もなかったのだ。 途端に申し訳なくなり、はっきりと「違うよ」と口にした。
 すると曇っていた表情は一瞬にして笑顔になった。
「そう。じゃあ、気をつけて」
 軽く手を上げた浅岡に頷き返し、隣にいる田辺に頭を下げて春久は足早に背を向けた。
 はぁと零れた白い溜息が空気にとける。
 折角、今日で終わらせようと思ったのに、それが出来なかった。 それはつまり、まだこのもやもやした気持ちを持ち続けなければならないということになる。
 ポケットに手を入れ。
 指に触れたひんやりとした銀のかたまりを、ぎゅっと握り締めた。





 ただひたすら時間が過ぎる。
 日が昇り、日が暮れる。雲が流れ、風がそよぎ、赤く色づいていた葉は色褪せ、物悲しげにゆらゆらと舞い落ちる。



 あれから一ヶ月。
 鍵は返せないまま春久のもとにある。
 何度か章正のもとへと足を運んだが居ないことの方が多く、結局は持ち帰る他はなかったからだ。 そんなことの繰り返しでは、気になりつつも、次第にそのままでいいやという気持ちの方が大きくなっていくことも仕方のないことだろう。
 だからもう春久は彼のアパートに行かなかったし、章正から連絡がくることもなかった。

 春久が春久の生活を送り始めた頃……。

 ある日、アパートに戻ると玄関の前に章正が座っていた。春久の姿を見ると、立ち上がり、ぎこちなく「よぅ」と手を上げた。
「どうしたの?」
「いや、ずっと謝れなかったから……。ごめんな。酷いことした」
 その一言を口にするのに、こんなに掛かってしまったのか。
 もう一ヶ月も経ってしまったことを言うのに。
 しかし、どれだけ経っていても逢いにきてくれたことは、そうしようと決めてくれた気持ちは、やはり素直に嬉しかった。
「うん。もう、いいよ」
 春久が穏やかに口にする。
 これで全てが終わった。
 謝罪と赦し。
 これで章正の罪の意識も消えるだろう。
「来てくれて有難う」
 そのまま立ち尽くす章正を、隣に立ち、見上げる。久しぶりの彼。 かつての恋人。愛して……。今はもう伝えられない言葉を胸に、春久は笑顔を見せた。
「有難う……。章正」
 春久の微笑みに、章正の唇が微かに動いた。何か言いだけに。
 問えば、答えてくれるだろう。
 しかし春久はそうはしなかった。
 訊かないほうがいい、本能がそう告げている。
「鍵、開けられないから」
 ドアを塞ぐ彼にどくように促す。
「あ、ごめっ」
 慌てる彼に、小さく笑って。
「ずっとそこにいたの?」
 鍵を回した。
「二時間ぐらい」
「に?!」
 思わず振り返ると、なんでもないように頷かれた。
 ここは冷える。吹きさらしではないとはいえ隙間から風は入るし、なんといっても空気が真冬のものなのだ。 しかも章正は薄着だった。コートではなく、マフラーも手袋も無しでは身体のシンから冷えていることは間違いだろう。 春久が部屋にいると思ったのか、こんな時間まで帰らないとは予想外だったに違いない。
 こんな人だったか、と春久は思う。
 何時間も同じ場所で待ち続けるほど、辛抱強い人だったのか?
 待ち合わせをしたこともなかったから、実は忠犬のように待つ人であっても春久にはわからないこと。 ただ、自分の前でどうだったかを考えるとやはり酷い違和感を感じることは確かだった。
 けれど今はそんなことよりも。
 春久を待っていた。
 ごめんと一言言う為に……。
 その事実だけで優しくなれる。大丈夫。心は騒がない。あれほど乱れると思った想いは、今、静かな眠りについているのだろうか。
「……温かいものでも飲んでいく?」
「うん」
 構えることなく嬉しそうに頷く彼に、春久の心は数ヶ月ぶりに小さな明りがともった気がした。

 春久の後をついて部屋にあがった章正。
 ここにはあまり来る機会もなかったからか、珍しそうに周りを見回し、小さなテーブルの前に座った。
「随分遅いんだな」
「今日はね、みんなと飲んでたんだ」
「みんなって?」
「知ってる人たちだよ……」
 それらの問いは、ヒーターのスイッチをつけ、キッチンとは言い難い狭いコンロの前にいる春久の背中に向けて投げられたもので。
 詮索とも取れる内容にも、春久は笑みを湛えて答えている。
 なんだかこんな風に会話をすることが懐かしく、そして嬉しいと感じたからだ。
 カップ二つ分の水を入れたやかんを火にかける。
「バイトの」
「バイトの?」
 また聞き返され。それに数人の名前を挙げると、やはり覚えていたのだろう、章正は「ああ」と分かった風に相槌を打った。
「楽しかった?」
「うん」
「そうか……」
 聞きたい事はもう終わりなのか、急に場が静かになってしまった。
 テレビでもつけようか……。
 春久は静かな空間を好むが、章正の部屋はいつも何かしらの音が出ていたことを思い出したのだ。CDだったりテレビだったり。 だから今はきっと落ち着かないだろう。
 リモコンを手にして、
「あ」
 そうだ……。
 それよりも重要なことを思い出した。
 春久が、机の上に置いてあるカラフルな飴の缶入れの蓋をあける。
 ずっと渡せなかった鍵。
 入れた時と変わらず、そこにあった。
「これ。返そうと思ってて。遅くなったけど……」
 テーブルのちょうど中央。横向きに置かれた鍵はまるでふたりを隔てる境界線のよう。
 章正は見つめている。
 シューッとやかんの音が大きく響いてくる。ちょうど湯が沸いたようだ。僅かな水が沸騰するのにそれほど時間は掛からない。
「コーヒー、いれるね」
 動き始めた時、彼が無言でそれをとり、くるくると手の中で弄んでいるのが目の端に映った。
 受け取ったとこに安堵し、そして、少しだけ寂しい。複雑な心境。けれど、これはきっと正常な感覚なのだ。
 寂しいのはずっと手元にあったから。
 章正との繋がりがなくなるからじゃない……、春久は自分に言い訳すように小さく笑った。
「ハル……」
「ん?」
 カップにお湯を入れていた春久は声だけを返した。
 それでもすぐに続く言葉が出なかったのは、春久が振り向くのを待っていたからだろう。 ふたつ分のコーヒーを手に戻ってきた時、章正は口を開いた。
 視線は春久へ。
「お前の、アレ。あれなんて言うんだっけ……。鶏肉とか芋とか人参とかゴボウとか入った煮物。アレが食べたい」
「急に何? 煮物? 肉じゃが…じゃなさそう。筑前煮?」
「って言うのか? うん」
 それそれと人差し指を立ててひとり納得してみせる相手に、
「でも材料買ってこないと」
 キョトンと首を傾げて応えたが、今ではないことは春久にもわかっていた。
 また来て欲しいということなのだろう。
 誤魔化しは、ない方がいい。
 僅かに俯いて、顔をあげた。
「……僕は……」
 章正が答えを待っている。
「このまま離れていた方がいいと思う」
 やっとここまで歩いてこられたのだ。
 普通に顔を見て話せるまで……。
「じゃあ、友達として電話とかしてもいい?」
「うん」
 友達として……。
「今度、遅くなる時、俺が迎えにいってやるよ」
「うん」

 ツキッと。
 眠っていたはずの心が痛み始めたのは、もっと時間が必要ということなのか。
 友達として付き合おう……。
 春久は頷いた。
 章正がほっとしたように微笑んだのを見て、再び、春久の心が悲しげに鳴いた。

2005/04/08

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