酷い男 12


 章正が訪ねてきた次の日、春久は浅岡に誘われていた。 夕方に携帯に連絡があり、そのまま出かける約束をしたのだ。 といってもいつものバイトがあったから、常連になりつつある焼き鳥屋で、軽くつまみながら飲む程度なのだが。
 その彼と十五分ほど前に別れ、アパートに帰ってきたのはつい今しがた。

 彼から電話が入ることは多い。出かけることもある。章正とのことがあってから、週に二、三回はこんな風に飲み歩いていた。 だからといってふたりの仲が発展しているかといえば、微妙としかいいようがない。
 春久が心を決めかねているからだろうか。あくまでも友達の域を出ることは無かった。
 浅岡は優しい。
 春久に強要することはひとつもなく、彼の意思を優先してくれる。 穏やかで楽しくて、気が利いていて。しかもルックスは人並み以上の爽やかな青年。 その彼を恋人にする人は恵まれてる、と思う。
 しかし、春久はどうしてもそこまでしか相手を見られなかった。

 はあ……。
 疲れたわけではないのについ零れてしまう溜息。
 風呂にお湯を張るのも面倒で、簡単にシャワーを浴びるだけにした。
 あまり強くない水流を頭から浴び、目を閉じる。
 食事は相変わらず楽しかったし、その後も喋りながらふたりで歩いて……。
 続いて浮かんでくる光景は、薄暗い狭い路地のコンクリート塀と、電球の切れ掛かったチカチカする街灯。 そして、目の前にいる浅岡。
『章正とのことは終わったんだろう?』
 発せられた静かな一言はあまりにも突然で、考える間もなく、春久は頷いてしまっていた。
『良かった』
 彼の口元が綻んだのを見て、反射的に微笑み返した。しかし微かに自分の頬が引きつっていたことを知っている。
 周りの暗さが幸いして、おそらく気づかれてはいないだろう。己だけがわかる、その程度の小さな表情の変化のはずだ。 良かったと言われることに異論を唱えるようにザワザワと騒ぎ出した心は、しかしその時はすぐには治まってくれた。 いや、今思えば、勝手に暴走しはじめる前兆だったのかもしれないのだが。
 思い返しては、またも溜息が出てしまう。

 言葉の後、人気のない路地で普通の恋人たちがそうするように、自然に浅岡は春久を抱しめた。
 その時までは落ち着いていた、と思う。一瞬触れた、感情を押し殺したような、気圧される雰囲気が消えていたから。
 キスされるんだな、それもわかった。
 しかし、いざ唇が触れ合うほどに近づいてきた時、春久は顔を背けてしまったのだ。それは無意識の仕草だった。
 すぐに冗談だよと笑ってくれたけれど、傷ついた顔を真正面から見てしまった。
 まるで純情な少女のような行動をしてしまった自分。
 あまりに居た堪れなくて、つい口走ってしまったのは、多分一番言われたくないだろう、ごめんという謝罪の言葉。 それなのに怒るでもなく、『それなら好きになってくれ』と返された。無理強いではないのだとわかるような、優しげな口調で。
 その優しさが余計に春久を苦しめる。
 嫌いではないのだ。決して。むしろこの感情のベクトルは好き方向だと言える。 けれども言い切れるほど、己の中で確固たる感情には育っていなかった。
 怖い……。
 その時、素直に感じたのはそのことだった。
 怖くて息がつまりそうだ。
 浅岡本人を恐れているわけではない。
 それははっきりしているのに、その突如として沸いてでた感情がどこから来たものなのかがわからない。
 誰かをもう一度好きになることを恐れているのか、相手の心変わり、自分の心変わりを恐れているのか……。 今の春久には何もかもが靄の中。 己の心すら見つけられない。だから春久は俯くばかりで、彼の望む言葉を返すことは出来なかった。

 今のままでは駄目なのだろうか。
 感情を決めなければ、身勝手ということになるのだろうか。
 じわじわと追い込まれていくような気がして。
 温かいシャワーの下、春久は身を震わせた。





 浅岡とは一定の距離を保ったまま、章正との間に変化が起こった。
 彼から頻繁に電話がかかるようになったのである。
 それは春久に、まるで仲の良い友達のような錯覚を起こさせた。
 友達として、そう言われた時は胸が潰れる思いをしたが、今はそれを受け入れられている証拠なのだろう。
 しばらく距離を置いた分、心は穏やかになり、春久は電話口でよく笑うようになっていた。

 それが章正を図に乗らせたのか、つまらないことでよく電話がかかる。
 お気に入りのシャツが見当たらないだの、前にしていた腕時計はどこにしまっただの、 果ては歯磨き粉の買い置きはどこにあるのか、なんてことまで。
 その度に、春久は章正の家に赴き、はい、と手渡しする羽目になるのだ。
 しかし用が済めばすぐに帰る。長居はしないし、章正も特に引き止めるようなことはしないから。
 何してるんだろう……。
 そう思うのは、いつも帰り間際。
 もう知らないと突っ張ることも出来るのに、 関係ないはずなのに呼ばれれば来てしまう。呆れる。これでは家政婦と変わらないではないか。
 自嘲するも、考えを変えれば頼られてるようで、なんとなく悪い気はしなかった。
 章正は、整理整頓の苦手な子供と一緒だ。だからこれからは、そう思うことにした。見方を変えれば、嫌な思いをしなくてすむ。
 そんな風に気持ちが落ち着いてきたのは、章正が訪ねてきてから、さらに一月が経過してからのことだった。



 その日も呼ばれていた。また、つまらない用事で。
 土曜の昼下がり。
 バイトまで時間があり、前から読みたいと思っていた洋書を前にして「さあ、読むか」と開いたあたりで春久の携帯が鳴り……。
『明日着ようと思ってたんだけどサ、ブラックジーンズ、どこに入れたんだっけ?』
「箪笥に入ってるだろ?」
『それがなかったんだよ』
 しょんぼりと、悲壮感を漂わせながら言われては、ついつい「わかった」と応えてしまう。
『俺、まだ帰れないんだけど、ちゃんと出しといてくれる?』
 高飛車な言い方でないだけ、まだ許せる……、そんな風に心で溜息を吐きながら、「はいはい」とおざなりに返事をして電話を切った。
 鍵を持っているからこういうことになる。
 カラフルな飴の缶。その蓋を開けて中のものを取り出した。
 最近では同じことの繰り返しで、なんの感慨も持たなくなった、鍵。
 そもそも持ち主に返したはずが、何故ここにあるのかと言うと……。
 章正が訪ねて来たとき、確かに返していた。
 目の前で彼が手の中に入れたのも見ていた春久だが、彼が帰り、片付けていたところ、どういうわけかそれがちょこんと置き去りにされていたのだ。 彼が座っていた場所に。まるで彼の代わりのように。
 もちろん、すぐに携帯に連絡した。しかしそれに対する章正の答えは『いらない』というもので、『捨ててもいいよ』あっさりとそんなことまで付け加えられて。
 その通りにしてやろうかと思わなかったわけではない。そんなことできるわけが無い、きっと章正はそこまで見越して置いていったのだろうから。
 どこか、誰も拾わないような場所に……。
 けれど、やはり春久には捨てることなどできなかった。

〜 〜 〜 〜 

 春久がアパートに着き、ドアをあける。慣れ親しんだ空気がふわりと春久を包みこんでくれた。
「まったく、子供じゃないんだから自分で探せばいいのに」
 誰に聞かせるでもなく、愚痴りながら靴を脱ぐ。
「洋服の入ってるとこなんて、そんなにないだろ?」
 箪笥の一番下、そこにパンツ類を仕舞うのは春久がやり始めたこと。
「僕だって暇じゃないんだよ……」
 それでも言われた通りにジーンズを出し、わかるようにベッドの上に置いた。
 いちいち独り言を零すのもなんだか虚しい気分にさせる。
 さて、帰ろうか……。
 しかし一通り見回すと、部屋が汚いのが気になり。
 掃除機を出してガーガーと埃を吸い取り、ソファはコロコロをかける。ここまでしたらもう止まらない。 ついでとばかりに、洗濯を片付け、キッチンに溜まっていた食器類を洗った。 結局、二時間かけて家中を綺麗にした。疲労感たっぷりで、それでも満足感もあって、よしよしと頷いてみたりして。
 その時、ピンポーンとインターフォンが鳴り、ガチャリとドアがあいた。鍵はかけていなかった。すぐに帰るつもりだったから。
「鍵あいてるぞ〜。無用心だな」
「あ、浅岡さん」
「……どうして君がここに?」
 本当に驚いたようだ。
 眼を瞠る浅岡に春久は、
「あ、たまたま。前に借りてたCDを返しにきて……。章正、鍵を隠してる場所教えてくれて、勝手に入ってくれって」
 口からでまかせのことだが、繕う。
「うわあ、部屋中ピカピカ。すごいな、掃除までしてたんだ」
「あっ、いや、僕じゃない」
 まさか家政婦のようなことをしていたとは言えるはずもなく、視線を逸らせた。
 とてつもなく居心地が悪い。悪戯を見つかった子供の心境、いや、それよりももっと重い。罪悪感のようなものなのかもしれない。
「ああ、じゃあ、今の、なんていったっけな、名前。興味ないから忘れちゃったけど、ショートの子かな。それともロングか」
 その言葉に意識が集中した。
 やはりまだ女の人とは付き合っているのだ。
 この部屋には女の匂いがしなかったから、その存在を忘れていた。
 今や自分は友達で、あれこれ口を出すことも、腹を立てたりするのも筋違い。 わかっていても、出来るなら避けたい話題であることも事実で……。
 視線は逸らせたままの、春久。
 だから彼は気づかなかった。己を見下ろす人が、酷く冷めた表情をしていることを。


「そんなことはどうでもいいか……。俺、DVD貸してたんだよね。返してもらいに来たんだけど。ついでに別なの借りていこうと思って」
 自分の世界に入り込みそうになる春久を引き戻すように、浅岡は人のいい笑みを見せる。
「DVD?」
「そうそう。あぁ、それかな?」
 テレビラックに入っているDVDデッキ。その機器とラックの隙間に立て掛けてあるのがそうなのだろう。浅岡が手にして、やっぱりそうだと掲げて。
「ねえ。喉、乾かない? コーヒー、あるだろう? 章正にはあとで俺から言っとくから、いれてくれるかな……」
 申し訳なさそうに言う。
「あ、うん」
 自分の分はいれずにひとつだけ。
 カップを片手に戻ってくると、君も一緒に飲もうと誘われた。
 ちょうど家事全般をやり終え喉が渇いていたし、少々寛いでいたところで章正から文句は出ないだろう。 それに相手は浅岡なのだ、断る理由もない。
 頷いて、自分の分も用意した。
 浅岡はソファに座っていた。ビーズ素材のラブソファ。その隣に腰掛けるわけにもいかず、春久は少し外してラグの上に直接座った。
「砂糖、欲しいな」
「あれ……?」
 章正はブラックだ。そして春久も。浅岡もブラック派ではなかっただろうか。だから用意しなかったのだが。
「でも浅岡さんってブラックじゃなかった?」
「今日は特別」
 しかし砂糖と言われても角砂糖もなければ、ステック状のものもない。仕方なく春久は普通の白砂糖を小さなカップに移し、ティースプーンを添えてキッチンから戻ってきた。
「これでいい?」
「有難う」
 それを彼は、ひと匙、コーヒーに入れると、くるくるとかき混ぜる。リズミカルに。
 そんな子供のような仕草に春久も楽しくなって、自分のカップに口をつけた。ほろ苦い香りが口いっぱいにふわりと広がる。
「DVDって何を貸したの?」
「エロ」
「嘘っ!?」
 相手がフフフと笑う。
 他愛のない会話を進め、カップの中身を空にした頃、なんとなく目の前が揺らいだ気がして、春久はコメカミに手を添えた。
「顔色が悪いみたいだよ? 疲れかな?」
「大丈夫、僕、そろそろ……」
 うちに帰って休もう……。
 立ち上がろうとして、ぐらりと身体が傾いだ。足に力が入らなかった。
 支えてくれなければ倒れこんでいただろう。
 有難う、そう言うつもりだった。
 浅岡の笑顔を見るまでは。
 皮肉たっぷりな、意地悪そうな笑み。こんな顔をする浅岡は知らない。
「心配はいらない。少し眠くなるだけだから」
 春久が信じられない思いで見つめていると、ニッと唇を上げ、空の白い袋を見せられた。病院で出されるような散剤の小袋だ。
「水嶋は優しいね。砂糖と一言言えば、ちゃんと持ってきてくれる。 ……良く出来た奥さんみたい。章正には本当に勿体無いと思うよ。 ねえ、聞かせてくれよ。あいつのどこがそんなにいいの? 前にホモの噂出てさ。 すんごい否定しまくりで女遊びが激しくなったっけ」
 え、と思った。
 もう関係ないのに、胸が痛む。そんな噂があったのか、と。
「それなのに離れないのはどうして?」
 春久は何も言えずに眉根を寄せた。
「まだあいつのこと、愛してるの? 俺があんなに優しくしてあげたのに靡かないんだものね。 キスもさせてくれない。……こんなに身持ちが固いとは思わなかったよ」
「ど、して」
 優しくしてあげたのに……?
 どういうこと……?
 そして、たどり着く真実。
 あの優しさは作られたものであるということ。
 全てが偽善。
 あまりにショックで、とても現実とは思えない。一緒に笑いあった時間が嘘なんて。
 呆然としている春久に、尚も聞かせるつもりらしい。
「俺さ、水嶋があいつの恋人だったこと知ってたんだよね。かなり前から。 ……まあ、その時はそんな恋愛もあるんだろうな、って思っただけなんだけど」
 章正が自分自身の想いを受け入れていれば良かったのだ、浅岡は続けた。
 女をとっかえひっかえするからいけないんだ、と。
「あんな酷い奴なのに、まだ愛してくれる人がいる。これってずるいと思わない? 彼女も、君もなんて。俺とあいつの差ってなあに?」
 嫉妬、羨望。
 そんな負の感情を纏い、春久のシャツのボタンに手をかける。ひとつ。またひとつ……。
「っ、やだ、やめろ」
 それでも身体は自由にならず、拒む言葉も弱弱しい。
 全て外し終わると、左右に開いて。
 身体が柔らかな日差しの下、晒された。
 掌が白い肌に当てられ、そして感触を確かめるように、ゆっくりと動いていく。
 ひくっ、春久の見せる怯えに、浅岡の瞳に宿るのは暗い愉悦か。
「この前だって、ちょっと揺さぶりかけてやろうと思って、カムアウト用にわざわざポスター仕様で作ってやったのに、 あいつ、何か開き直ったみたいでさ、全然、弾けてくれない。 つまらないんだよ……。だからさ、水嶋が俺を楽しませて」
 意識がゆらゆらする中、必死に考えても浅岡の言いたいことがわからない。
 カムアウトって?
 ポスター?
 意味不明な言葉の羅列に、目の前の人物を凝視した。
「なに、言ってるのか、わからない」
 微かに震える言葉には、何も返されず。
 ただ、春久の頬を浅岡が撫でた。ゆっくり、ゆっくりと。
 優しいと思っていた掌の温度が、今は気持ち悪いだけで、春久は身を捩る。
「さわるな……ッ」
 そんな様子にも楽しそうに目を細め、次いで徐々に感情を消し去っていく。
「こんなところにいなければ良かったのにね。ちゃんと別れてれば良かったんだ。 あいつのもとから黙って去っていれば、俺も君にはこのまま手を出さずに、遠いところに行けたのに……」
 紡がれる言葉は冷え切っている。
「男がどれほどいいものなのか、試させてもらおうか。章正が大切にしている君を……。人の彼女、寝取ったんだから、それぐらいさせろよ」

 女に見境なく手を出した報いは、春久に返ってきた。

2005/04/14

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