酷い男 15


「ハルッ!!」
 取っ手を回すのももどかしい勢いで玄関を開けると、名前を呼んだ。

 シンと静まり返る部屋。

 それほど広い部屋ではない。玄関を開ければすぐに、いつものくつろぎスペースが見渡せるぐらいの広さしかないのだ。 テーブルもビーズのソファも、何もかもが普段どおりに配置されている。 けれど春久はいない。電話を掛けてきた浅岡も。そこにふたりの姿はなかった。
 途端、あんなに焦って部屋に入ったにもかかわらず、縫いとめられたように足が動かなくなってしまう。
 な、に?
 先の読めない状況に心臓が壊れそうなほどに脈打ち、神経が張り詰めていく。掌に汗を滲ませながらも、視線だけは忙しなく動く。
 そして今まで目に入らなかったものを見た。
 飲み干された二個のコーヒーカップと乱れた形状のソファ。床に転がっているゴムの箱。未開封だったはずのラブローションは封が切られていた。
 目に映るもの全てが、確かにふたりがここにいたことを知らせていて。
 帰るまで、この部屋に辿りつくまで、嘘であればいい思っていた章正の望みは木っ端微塵に打ち砕かれることとなった。
 章正の血走る眼は春久の形跡を探す。
 どこにいる……?
 連れて行かれた?
 どこへ??
 春久のアパート? それとも浅岡のところか?
 咄嗟に踵を返し、再び外に出ようとして……気付いた。
 玄関に自分以外の靴があることに。礼儀正しく、きちんと揃えられているスニーカーは見慣れた春久のものに違いなかった。



 寝室へと続くドアを引いた。
 視線は真っ先にベッドへと向いた。そこに横になっている人を認めて、震えは止まらない。手から全身へ、紡ぐ言葉までも震わせていく。
「はる、ひさ……」
 よたつくように、傍に近寄り、顔を覗き込む。
 春久が目を閉じていた。少し微笑んでいるように見える、穏やかな顔で。
 眠っているのだとわかっていても、まだ煩く鼓動が騒ぎ立ててくる。
 あまりに穏やかで、あまりに静かだったから。
 春久! ハル! ハル!
 心の中で響き続ける泣き声にもとれる叫びは、音になる前に砕け散る。
 寝顔だけ見れば、何事もなかったと錯覚してしまいそうになるけれど、そうでないことは玄関を開けてすぐに見た通りなのだ。
 暴力を振るわれたりしていないだろうか?
 傷つけられてはいないだろうか?
 悪い方向へと展開させれば途端に恐怖に襲われる。怖くてたまらなくなってしまう。そんな負の思考を押し留め、布団を捲った。
 その瞬間、目を瞠る章正。
 肩まで引き上げられた布団でわからなかったものを目の当たりにしたのだ。
 素肌だった。
 足の先まで、覆うものは何もなかった。 咄嗟に辺りを見回し、ベッドの上、足元の付近に自分のものではないシャツとジーンズが置いてあることに気づく。春久の服に違いない。
 けれど、章正に衝撃を与えたのは、彼が裸だったから……、だけではない。傷はない。流血した様子も。
 あったのは、そこかしこに散らばる赤い華。
 浅岡がつけた存在の証。
 脳が冴える。
「ハル……」
 章正が耳元で呼ぶ。
「ん……」
 しかし春久はまだ夢の世界から出てきたくはないようだ。小さく呻き、むずがるように眉を寄せた。

 そこに響く着信音。
 液晶に表示されてるのは浅岡の名前だった。
 章正が自分の家に着き、春久の様子までも確認した頃を見計らって掛かってきた電話は、あまりのタイミングの良さに、 あの男がまだどこか近い場所にいて、己を見ているのではないかと思わせる。
 章正はベッドの向こうの窓から下を覗き込んだ。
 そこに人影らしきものはない。見える限りの場所まで視線を走らせる。
 そうしてるうちにもコールは止まずに鳴り続けていた。章正が取るまで切るつもりはないようだ。 章正は部屋を出ながら、通話ボタンを押した。

『お前、なかなかやってくれる』
 苦々しく紡ぎだされた開口一番のその一言はどういう意味を持つのか。
『まさか警察を呼ばれるとは思わなかったな……』
 章正は信号待ちの僅かな時間でかけた電話が功を奏したのだと、そう受け取った。
 しかし、たとえそうだったとしても怒りが静まるわけではない。
「浅岡、切り刻んでやりてえ……ッ」
 低く唸る。

 彼の言葉どおり、章正は警察に連絡をしていた。
 そうは言っても、事実を伝えて助けを求めたわけではない。留守のはずの隣の部屋から変な物音がするという、捻りのない嘘をくっつけて呼び出したのだ。
 しかも偽名を使っていた。隣人を装ってはみたものの思いつきの名前。あの時、隣の住人が家に居たのか居なかったのかそんなことは知らないが、そもそも自分が口にした名が違うのだから、 警官に尋ねられていたとしても悪戯で済まされるだろう。
 罪悪感など二の次。
 少しでも春久から注意が逸れればいいと、それしか頭には無かった。
 よほど図太い精神でない限り、警察がバタバタとうろついている最中に、のんびり楽しむほどの余裕はないだろうから。
 自分が着くまで……。
 時間稼ぎをするために思いついた咄嗟の行動だった。

「今、どこにいる」
『秘密』
 フッと小ばかにしたような笑いに混じり、微かなざわめきが聞こえてくる。人の多そうな場所……、駅にでもいるのかもしれない。今から出ても、捕まえられない距離を保っているのだ。
 様子を伺うように黙った章正には構わずに、浅岡が問う。
『ところで春久君はまだ寝てるのかな……?』
「春久に薬でも飲ませたか」
『ああ、ちょっとね。よく効いてるだろう? 警官の巡回もそうだけど、これも想定外だったな。 ベッドに連れていって、さあこれからって時に気持ち良さそうに寝ちゃってさ。 あーあ、なんて思ってたら次はパトカーの到着だろう? おかげで食いそびれた。どうだ嬉しいか? この一言が訊きたかったんじゃないの? 俺としてはその前も充分楽しませて貰ったから、ごちそうさまな気分だけどな』
 クスリと笑う、浅岡の顔が脳裏に浮かんだ。
 浅岡の言葉で確かに安堵した部分もある。しかし最後の最後で間に合ったことが、果たして幸運と呼べるものだろうか。
 どうしようもない不慮の事態ではないように思う。全てが、紛れもなく避けられた出来事だとしたら。これでは相手への憎しみが増すだけ。己の不甲斐なさに苛立つだけ。決して、笑い会える場面ではない。
 頭に血が上るのも仕方のないこと。
「つらつらと寝言並べてんじゃねえよ! 会って話し合おうぜ」
 実際、目の前にいたなら、おそらく殴り倒されていただろう。
 それが浅岡にはわかっていたから、章正が到着する前に部屋から出られるように時間には細心の注意を払っていたし、外の様子にも気を配っていた。 すぐに逃げられるように。
 それだけ注意深く振舞いながら、誰が好き好んで猛獣の檻に自分から飛び込んで行くだろうか。 柵の向こうだと思うから、好きに囃し立てられるのだ。
『残念ながら俺もボコられるのは嫌なんでね、だからそこにいないんじゃないか……。 それに、もう二度とお前には会わないと思うよ。というか、会えないと言ったほうが正しいか。大学自体、変えるから。……遥か遠く、お前の手の届かない場所に』
「だから……、もう会わないから犯そうとしたっていうのか! 何の関係もない春久を?!」
『まあ、性衝動ってやつだ。目の前にいたから』
 章正の言葉に、浅岡はそう答えた。

 これは挑発だ。
 煽られている。
 それに乗ってしまえば余計楽しませてしまう。
 そこに気づいた章正であるが、しかしこんな遣り取りをしていても、彼にはまだ浅岡がどうしてこんな行動に出たのかわからなかった。
 春久に好意を寄せていた? そんなに手に入れたかった?
 否、それだけではない、伝わってくるのは、己に対する果てしなく黒い感情。 けれど、何故なのか。 友だと思っていた男の不可解な行動は、怒り以外の戸惑いを生む。 今更理由を聞いても友としての関係は完全に崩れており、修復は不可能だが……。
 しかしその心の葛藤が勝手に言葉となり、零れ落ちた。
「……俺が憎かったか?」
 茶化し続けていた相手が黙り込む。
 言葉を捜しているように。
『愛してたヤツが他のヤツのものになる。どんな気持ちがした?』
 時間にして溜息一つ分、というところだろうか、静かに言った。
 他人事のような彼の言葉を頭の中で復唱してみる。
 今までしてきたこと、身に覚えのありすぎる光景が瞬時に浮かんだ。しかし今ここで後悔して何になるというのか? 浅岡に対しての謝罪の言葉は持ち合わせていないのだ。
「俺が憎かったなら直接俺に言え! 春久を巻き込みやがって! もしもまたあいつに手、出してみろ。 次こそ、どんな遠くに逃げようと追いかけて地獄に落としてやる!」
『……別にどうでもいい』
 ほぼ同時に電話を切った。
 無機質な回線の音が耳に響いていた。

〜 〜 〜 〜 

 電話の後、部屋に戻った章正は、くたりとしている春久の身体を簡単に調べた。
 どちらのものともわからない名残を拭き、とりあえず下着とシャツを着せた。それからしばらく寝顔を眺めていた。
 しばらく離れて気づいたことがある。
 春久の控えめな態度、物静かな雰囲気が必要だということ。
 自分を落ち着かせてくれていたのは、春久の存在。 空気のように自然で、なくてはならない存在としてしっかりと根付いていた。
 女とは春久と別れてからすぐに別れていた。 傍にいて欲しいのはただひとり。春久だったのだと知ったから。
 愚かにも、別れて気づいてしまったのだ。
 どうにも我慢できなくて逢いに行って。それからますます惹かれていく自分がいた。
 そういえばよく笑う人だと、そう、以前もよく笑っていたと思い出し、 それがいつのまにか笑わなくなり、固い表情で過ごすようになり。それは己がさせていたことだと気づいた時には、自分で自分を罵りたくなった。

 過去の自分は、あの日まで遡っていく。
 己可愛さに、別れを持ち出したあの日。
 屈辱的な条件をつけ、中途半端に春久を引っ張りまわして――。
 その結果がこれだ。
 自分の友人に狙われ、襲われた。
 殴り倒してやりたいのは、浅岡ではなく自分自身。

 静かに寝息をたてる春久の右手を両手で握り込み、己の額に当てた。
「……っ、春久……、ハル……ハル……ッ」
 許しを請うように、呼び続ける。

2005/05/23

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