酷い男 16


「春久……ハル」

 オレンジ色の夕陽があたりを染めはじめていた。
 どこからか救急車のサイレンが聞こえた。
 家に帰る子供達のまだ遊び足りなさそうな文句や駆け出す足音、工事中の重機の音、通りを行きかう車の音、自転車のベルなども聞こえてくる。
 それなのに、こんなに街中が騒がしいのに春久だけが静かで。
 今、起こさなければ永久に目覚めないような気がして、章正は根気よく春久を呼び続けた。

「……ぅん。……ねむい……よ」
 章正の訴えかけるような声が届いたのだろうか。
 瞼を閉じたままの春久が、まるで寝言でも言う様に舌足らずな声で応えてくる。
「ハル……。起きて。ハル……」
 一言でも返してくれたことに安堵して。
 優しい声を落しながら、額の髪を払うように指先に絡ませる。
「…………ん」
 やっと浮上してきたようだ。ゆっくりと瞳が開いていく。 しかし焦点はまだ合っていない状態で、おそらく誰が傍にいるのかも理解していないに違いない。
 そんなぼんやりとした視界に映りこむように章正が身を乗り出した。
「ハル?」
 パチパチと数回瞬きを繰り返す春久。そうしてからようやく章正を見つけられたのだろう、ゆっくりと口元に笑みが広がっていく。 ほわりと、生気のなかった頬に赤みが差した。
「……アキ」
 少し掠れた音だったが、それでも充分に喜びに溢れる声で自分の名を呼んでくれた。
 なんの繕いもない反応に胸が締め付けられてしまう。
「うん」
 だから、章正はそう応えるのが精一杯だった。

「あ、アキ……?」
 章正が微笑みかけてくる。握り締められていた右手を口元まで引き上げ、その手の甲に唇を押し当てるという甘い仕草つきで。
 半分、夢見心地の春久であったが、夢でないことはわかっている。だからこそこんな彼を前にして驚かずにはいられないのだ。 思わず凝視してしまうぐらいに。
 己の手を壊れ物ののように大切に両手で包んで、しかも口づけまで。章正らしくない。 これはなんの冗談なのだろう、春久は瞳に困惑の色を乗せる。それでも握られたままの右手は奪い返そうとはしなかったが。
「具合どう?」
「何……が? あぁ…、ここ、章正の部屋、ベッド……? 僕、何してるんだろう……。……呼ばれて、 それから……? いつの間にここで寝たのかな……。誰か……?」
 思いついた言葉を並べても、思考は纏まらなかった。
 何故、勝手に人のベッドで寝ているのだろう。しかも、ジーンズまで脱いでいるではないか。いつもの自分ならば考えられないことだらけで疑問は増すばかり。
 どうしてだろう……。
 必死にこれまでの経緯を頭の中で手繰る春久だが、しかし思い出そうとすればするほど記憶は途切れがちになるようだ。
 微妙な面持ちで春久は章正を見る。 どうしてここまで意識が混沌としているのか教えて欲しい、まるでそう言っているかのように。
 しかし章正はそのヒントを与えなかった。
 それはそうだろう。章正にしたらそのまま忘れてほしい出来事なのだ。たとえ不可能だとしても。すぐに知ってしまうことだとしても。
 出来ることなら……。
 浅岡の記憶を消してしまいたい。
 それが駄目ならばせめてその記憶ごと塗り替えてしまいたい、章正は思う。
 そんな誤魔化しが通用するだろうか?

 春久に考え込ませる隙を与えないように言葉を連ねた。
「何も考えるな。風邪かもしれねえし。疲れがたまってたりとか……ごめん、俺のせいだな。お詫びに後で何か作ってやろうか? ハルほど美味くは出来ないけど……。うどんとかがいいか。消化も良さそうだし。よし、そうしよう」
 愛しいものを見るように目を細めて自分を見る章正の、そんな表情がますます春久を圧倒し、混乱させていく。
 かつてそうされたように、髪を耳にかける仕草をされれば、どうしたって呼吸が速くなってしまう。 けれど、こんな雰囲気だからといって、いい気になってはいけないと戒める。 もしかして好きになってくれたのかも、なんて勘違いすることほど辛いものはないのだから。
 甘い毒に全神経を侵される前に去らなければ、もう二度と立ち直れないことはわかっているではないか……。
 思わず春久は目を伏せた。
「ごめん。いい。帰るから……」
 泣きそうになる己を宥め、なるべく感情が表にでないように言ったつもりだ。そして身体を起こした春久だが、 しかしベッドから出ることは出来なかった。
 まだ薬が抜けきっていない状態だったため、眩暈に襲われたのである。
「おいっ!」
「っ……」
 立ち眩みに似ていた。
 ぐらりと傾いだ身体には、妙な浮遊感があった。もしも章正に抱きとめられなかったら、ベッドから落ちていたかもしれない。 大した怪我にはならなくても、コブのひとつぐらいは覚悟しなければならなかっただろう。
 額を彼の肩に押し付け、息を乱す春久。
 労わるように、そっと章正が背中を擦ってくれていた。
 それに意識をあわせるうちに次第に呼吸の乱れは収まってきたけれど、なんとも情けなくて落ち込んでしまう。 失態ばかりを見せている気がしたのだ。 たかがベッドから起きようとしただけで、しかもただ半身を起こしただけで眩暈を起こすなんて、どこの病人なのだろう、と。
 世話を焼かせるなと冷たい一瞥を投げられることを恐れていた。急に優しくされたところで今までの経験が消えるものでもないのだろう。
 居た堪れなくなって、身体を硬くして。
「ごめんなさい……」
「ほら、無理だって。帰るなんて言うな。大人しくしてなきゃ駄目だ」
 しかし章正はそんなこと一向に気にしてないようだ。
 声に宿る心配の色に緩慢な動作で顔をあげると、章正を見た。そして息をつめる。
 これを……この真剣な眼差しを、どう受け取ればいいというのだろうか?
「だけど……」
「ここに居てくれ」
 そんなに辛そうな瞳をされたら、頷く他はないではないか。
 女々しく、縋りついてしまう自分がいる。
 それでも許してくれるというのならば……。
「……うん」
 小さな声で答えた。
「よし」
「章正は? 本当は用事あるんじゃないの? 僕のことは気にしなくていいよ。帰るときは、ちゃんと鍵かけておくから」
「傍にいる」
 己の返事にホッとした表情を見せ、微笑みを返してくれる章正に、春久も肩の力を抜いて。
 そして酷く緊張していたことに気づいた。
 自分だけじゃない。おそらく章正も。
 やはり何かあったのだ。今日……。
 そうでなければ、こうして知らぬ間に章正のベッドで寝ていた説明がつかない。 性格的にも、いくら具合が悪いからといって人のベッドに無断でもぐりこむようなことはしないと断言できるのだから。
 章正の腕に抱かれたまま、春久は首を回し、窓の外を見る。
 いつの間にか陽は落ち、薄暗くなっていた。数メートル間隔で設置されている細長い外灯が道路を照らしている。 既に夜と言える時間だろう。 それなのに部屋には明りが灯っていない。薄暗い中、吐息を感じることが出来るほどの至近距離で会話を交わす自分達は、明らかにおかしい。
 今朝起きた時からのことを順に辿れば、必然的に何かに当たるはずだ。あまりにも不自然な己の行動の意味も知るだろう。 しかし今は何も考えたくないと、春久は思う。壊したくない……。漠然とだが、そう思った。
 なぜなら、彼が優しいから。
 幸せな気持ちを少しでも長く味わうには、もう少しこのままでと願う。
 章正の全てに一喜一憂する自分は滑稽だとわかっていたが、嬉しいものは嬉しくて。 傍にいると言ってくれたことが嬉しい。胸がいっぱいになるほどに。
「今日の章正、優しい」
 想いを噛み締めるように呟いて、そして笑った。

 ふわりと微笑むから、章正は苦しくなる。とても幸せそうに微笑むから。
 自分のせいで酷い目にあったことを思い出しても、またこうして柔らかく笑ってくれるだろうか?
 再び、愛してくれるだろうか?
 忍び寄る不安。
 それを打ち消して欲しくて、春久の瞳を覗き込む。
「キスしてもいい?」
 確かに春久が頷くのを確認してから、章正は抱きしめた。
 己の心ごと、春久の心ごと全て包み込むように。
 精一杯の愛しさを込めて。
「ハル……好きだ」
 額に、頬に、鼻先に、そして唇にキスをした。

2005/06/04

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