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幸せの行き先 8

 音が聞こえた。でも微か過ぎて、それが何なのか聞き取れない。耳を澄ませて周りを見回す。
 誰もいない真っ白な世界。その中にひとりきり。歩こうと思っても手足を拘束されたかのように動かない。
 もしやこれが天国?
 ひたすら目を凝らすと、目の前に薄く人影ができた。
『悟』
 母さんが笑っている。
『悟君』
 未来の父さんも笑っていた。やっぱりそうだ。迎えにきてくれたんだね。
「逢いたかった……」
 手を伸ばそうと力を入れると、あんなに動かなかった金縛りが簡単に解けた。手に感じる温もり。暖かくて、とても安らかな気分になった。



 目覚めた時、ただ目の前の人だけを見つめていた。どうしてここにいるの? いるはずのない人がそこにいた。
 疲れ切った表情、それでも笑みを浮かべている人。いや、笑おうとしている悲しげな顔。この人のそんな顔は見たくなかったのに。
『よかった』と溜息まじりの声が聞こえて、混乱する脳が弾き出した現実は、 連れて行ってはくれなかったんだという落胆と生きていることへの後悔だけだった。
「三日間、眠りっぱなしだった。警察から連絡が来て。俺の名刺、持ってただろ? ……悟君、聞こえてる? 俺が誰かわかる?」
 感情の篭らない顔をしていたのか、そんなことを聞いてきた。
「……っ!」
 喋ろうと思って腹に力を入れて、ツキっと感じた痛み。眉を顰めると、すかさず相川さんが心配そうな顔をする。
「……あいかわさん……」
 自分で驚くほど、掠れた声。喉が乾いて、塞がれるような感じがする。彼は、オレの出した音に僅かに吃驚した表情をして、 だけど名前を呼ばれたのが嬉しかったのか、やっと少しだけ安心したような微笑が浮かんだ。
「忘れられたのかと思った」
「……母さん……達のところに……行きたかった…んだ……。ほっといてくれれば……よかったのに」
「そんなこと言わないで」
 相川さんの指がオレの頬に触れた。そのまま額にかかる髪をかき上げる仕草を繰り返す。
(ああ、おんなじだ)
 ずっと手に感じていた温もり。それは相川さんの手だったんだね。なんだかそれがとても気持ちよくて瞳を閉じる。 眠気を誘われて、再び夢の世界に落ちていく瞬間、『ごめんね』と震える声が聞こえて――。



 それから三週間後に退院して、もうすぐ半年が過ぎようとしている。
 オレの生活はといえば、今までどおりのマンションで一人住まいを始めた。
 祖父が一緒にと言ってくれたけど、学校もあるし、思い出の詰まった部屋を明け渡す気にはなれなかったから。
 ここには母さんと二人の父さんがいる。
 それに……。
「もう準備できた? 久々の休みなんだから早く出かけようよ」
「あ? うん」
 相川さんもいる。

 今でも思い出す、目覚めた時のこと。
『君が必要なんだ……。どこにも行くな』
 再びに眠りに落ちる時、ごめんの後に届けられた言葉。 ずっと自分はちっぽけな存在だと感じていた。普通は嬉しい言葉なのだろうけど、 誰かに必要とされるなんて思いもしなかったから、戸惑いの方が大きくて。 夢の中の都合のいい話だと思ってた。目が覚めたらきっといない、ネガティブ思考がそう告げていた。
(本気にしちゃ駄目だよ) 畳み掛ける様に、もうひとりの自分が囁きかける。
 だけど、その次の日も次の日も離れることなく彼はオレの傍にいた。 目覚める時にはいつも『おはよう』と微笑んで。一週間、仕事も休みずっと付きっ切りだった。
 きっと自分なりに実践してるんだと思う。オレに信じさせる為に。だからその時からオレはもう一度生きてみようと決めた。 相手がどんな社会的地位を持っていようが関係ない。差し出された手を掴んで離さない。足掻いてみよう、そう思った。 それほどに、『必要』という言葉が強烈に心に響いたのかもしれない。あんなに望んだ『好き』よりも。
 しばらくしてひとりで動けるようになると、仕事帰りに立ち寄り面会時間終了まで付き添うような形になった。 それが退院まで続いて、退院してからもなぜかうちに入り浸り。ちゃんと自分の高級マンションがあるのに。
 会社が近いという名目なんだけど、それならあのビルの五階の方がもっと近い。 後から分かったことはあの部屋は相川さん専用だった。 遅くなったときの泊まり部屋だという。今じゃほとんど使ってないんだけどね。

 婚約者が事件を起こしたことについては、 そこに自分が絡んでいるとは知られていないようで、皆、相川さんに同情的だったらしい。 だけどあの人は全てにおいて責任を感じている。だから仕事も今まで以上に精力的にこなしていた。 もちろんオレに対しても。半分はオレ自身が望んでしたことなのに、相川さんは自分を責めている。
『俺のせいで君に怪我をさせてしまった』
 辛そうに呟いたことがある。そう望んだと告げても受け入れようとはしなかった。 きっとこの事実からは逃れられない。だから必要とされてるのなら、傍にいたい。 彼が受けた見えない傷も癒してあげたい。 好きだから。どんなに違いを見つけても、忘れられないたったひとりの人。

「何考えてる?」
 腕の中に引き込まれて強く抱きしめられた。
 この人があの笑顔の下で重責を感じていたのを知ったのはつい最近の事。
 名前だけのトップになるつもりはない、と帰ってきてからも、グループの経営状態を把握するためにデータ管理に余念が無い。 それでも疲れた顔も見せずに休みごとにオレを楽しませようとしてくれる。 だからオレももっと前を向いて歩こうと思う。こんな近くに尊敬できる手本がいるのだから。
 この人と対等でありたいから。
 今は学生だし何も出来ないけど、でもいつか自分の道を見つけて胸を張って隣にいられるようになりたいんだ。
 だからとことん拘るよ。彼が相川グループの次期トップだということに。
「昨日も遅かったのに。疲れてない?」
「悟君が心配してくれてるなんて」
 嬉しそうな相川さんの背中に手を回してシャツをギュッと掴んだ。 離したくないってわかってくれるかな。胸に顔を埋めて瞳を閉じて鼓動に耳を澄ます。
 でもしっかりと意図が伝わったようで、「じゃあ出かけるのやめて寝てようかなあ」と笑った。
「その寝るっていうのはひとりってことだよな」
 そのままの姿勢で問い掛ける。
「君がいないと熟睡できない」
 とりあえずのオレのやるべきことはこの人の健康管理ってとこか。
「出かけるのは明日に変更。今日は一日休みにする!」
 偉そうに宣言すると、その笑顔が妖しく輝く。
「頑張るよ」
 妙に張り切って相川さんが笑う。
「いや、それは違うから」
 他愛も無いやりとりがオレにとって大切なもの。このとき見せる笑顔が本物だから。
「相川さん?」
「はい?」
「好きだよ……」
 穏やかな表情で小さく頷いた。 おでこがコツンとぶつかり、口元が緩む。
「俺も君が大切だよ。誰よりも好きだ」 唇に感じる吐息のような言葉。
 そして温もりを感じた。でもすぐに離れて。それを繰り返される。啄ばむような、もどかしいまでの優しさ。 額にも目元にも鼻先にも頬にも……。その優しさのまま唇が触れていく。
 耳朶を唇で挟まれて軽く噛まれた。
「ん……」
「ベッドに行く?」
 いつもよりトーンの低い声。その甘美な響きに震えが走る。オレは黙って頷いていた。

2003.06.05


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